第2話

 通話の終わったスマートフォンの画面をぼう然と眺めることしばらく、怒りは少し遅れてからやってきた。

「家を探せだって?」

 初耳だった。というか、これこそ「話が違う」というやつだ。

 だって前回ロンドンに滞在していたときは甘い生活――には程遠いものの、二ヶ月ほども栄のアパートメントで一緒に暮らした。もちろん転がりこむにはいくらか強引な方法を使ったが、積極的に家事もやったし、家の設備修理など栄の苦手とする対外交渉も請け負った。それどころか英語の手伝いに失恋の傷を癒すサポートまで、普通に家賃を払うのに見劣りしないだけの働きはしたつもりだ。

 それどころかこの年末には互いに好意を抱いていることを確かめ合ってセックスまでした仲なのに、なぜ三ヶ月前よりも関係が後退してしまうのだろうか。

 愛嬌がないのはいつものことだが、数日前話したときまでは、ここまで冷淡ではなかった気がする。何かまずいことを言ってしまっただろうかと振り返るが、別にそのときは地雷でなかったものが後付けで突如爆発する……羽多野に対する栄の態度は常日頃から理不尽のかたまりだ。

 頑固でわがままではあるが育ちの良さゆえの脆さや「常識」という言葉が弱点だということはわかっている。適度に甘やかして持ち上げて、でもここぞというときは一気に攻める。叩き上げゆえの狡猾さと強引さを持ち合わせた羽多野は栄のようなタイプの扱いには長けているつもりでいるのだが、たとえばリラとの過去がばれたときのように、予想外の事態に下手を打つこともあるから気は抜けない。

 それにしたって家を探せとはどういう心境の変化だろうか。年末に東京で過ごしたときも、同居前提での話に特段の反対をしなかったから、羽多野としては当然、前と同じように栄の部屋の客用寝室を自分のねぐらとするつもりでいた。新しい職場の赴任手続き担当者にも「家については当てがあるので結構」と告げてあった。

「えーと……まずは頭を整理して……」

 左右に大型スーツケースを従えて人通りの多い到着ロビーに立ち尽くしたままでは通行の邪魔になる。栄が仕事中ということは、彼の家に行ったところで部屋に入れず立ち往生するだけだろう。いくら投げやりになっていたとはいえ、あのとき部屋の鍵を返したのは失敗だった、そんなことすら頭に浮かぶ。

 空いているベンチに腰かけて、深いため息をひとつ。

 夜にでも会ってゆっくり話をすれば王子のご機嫌はなおって無事同居は認められるのだろうか。そういえばまだ金の話をしていなかった。今回は家賃は半分払うつもりでいるが、それを伝えなかったのがまずかったのか。栄は決してケチな人間ではないが、神経質なところがあるので金銭面もきっちりしておきたいのかもしれない。

 下手すれば今日の宿泊すら断られてしまうのではないか――そんな懸念を抱いてしまうほど昼間の栄の態度はひどかった。だが、しばらく空港で時間をつぶしてからタクシーでアパートメントに向かうと部屋のドアはあっさり開けてもらえた。

 それどころか、羽多野が以前使っていた客用寝室に足を踏み入れると、そこはきれいに片付いていた。以前は部屋の隅に積み重なっていた段ボールは消えているし、クローゼットの中にあった栄の冬物衣類もなくなっている。まるで新しい住人を歓迎するかのように。

「……片付けてくれたのか」

「片付けておくって言ったでしょう」

 栄の視線は「おまえは年末に何を聞いていたんだ」と言いたげな冷淡さを漂わせている。だが、今回については間違いなく理不尽なのは栄だ。

「あのさ、悪いけど意味がわからない。片付けておくって言ったり、家を探せって言ったり。俺はそう勘の鈍いタイプじゃないが、谷口くんのそういうところは……」

 ついていけない、とはっきり口にしてしまうのは危険なので言葉はにごす。仕事から帰ってまだ着替えていない栄は上着を脱いで、シャツとスラックス姿。ネクタイを緩めていないのは彼なりに羽多野の到着に緊張感を持っているからか。そういえば今着けている濃い赤に小紋柄のネクタイを似合っていると褒めた記憶がある。そういえば玄関にはすでに真新しいスリッパも準備してあった。

 つまり――これは、歓迎ということなのだろうか。

 まったく、賢くて有能であることに間違いないのに、どうして私生活いや色恋についてはこうも不器用なのだろうか。耳やしっぽで感情表現ができるだけ、まだ犬猫の方がましだ。とはいえ三百六十度にいい顔をして「紳士で穏やかな谷口栄」を演じ続ける男がこうも横暴の限りを尽くす相手は自分だけだと思えば悪い気はしない。

 ほんの数十秒前までは喧嘩のひとつも辞さないつもりでいた羽多野だが瞬時に気持ちがしぼんだ。

「まあ、とりあえず今日は泊めてくれるつもりみたいで安心したよ。家を探して欲しいっていう話については飯でも食いながらゆっくり聞かせてもらおうか」

「……ええ」

 羽多野が態度を軟化させたのに呼応するように、栄のピリピリした雰囲気も少しだけ和らいだようだった。

 相手は三十路、政治家や経済団体相手のタフな交渉も経験した現役官僚。かつて目にした議員相手のレクチャーや陳情対応での立て板に水のような話しぶりを思い起こせば、この言語不明瞭さが同一人物なのか疑いたくなるほどだ。しかし、こう言ってはなんだが、普段の栄が暴虐であればあるほど、ベッドで征服する楽しみも増すのもまた事実。まったく奇跡的な相性の良さではないか。

 夕食は外に出た。腹いっぱいになって、ワインも少し飲んで機嫌がよくなったところで帰宅して、栄はようやく「家を探して欲しい」発言の真意を語った。

「勤務先に、人と一緒に住んでいることを申し出たくないんです」

 明かされてみれば何の意外性もない理由だったので、拍子抜けした気持ちが顔に出てしまった。栄はそれに気づいたのか再び視線をきつくする。鈍い部分はとことん鈍いにも関わらず、こういうところは鋭いのは厄介だ。

 だったら最初からそう言ってくれればいいのに――という言葉は、危うい雲行きを見て飲み込むことにする。

「言わなきゃいけないの?」

 代わりに口にした質問も、栄的には「ハズレ」だったようで、返事がわりに馬鹿にしたようなため息をよこしてくる。

「当たり前です。前回はビザもなしで観光目的滞在なのが明らかでしたけど、今回は話が違います。就労ビザで、英国内で給与支給も受けている人を黙って家に置くなんて、できるはずないでしょう」

「君の職場はプライベートにまで口出しするのか。公務員って面倒なんだな」

「公務員も民間も関係ないでしょう。家賃手当ての絡みとかもあるし、あとで問題になるようなことはごめんです」

 言われてみれば正論だ。羽多野が家賃を半額支払うとなれば、なおさら職場に黙ってとはいかないだろう。

 羽多野の両親は、少年時代に無理やりアメリカ移住に付き合わせたことにより一人息子に傷を負わせたと強い引目を感じているようだ。おかげであれ以来、羽多野のやることなすことには一度だって反対したことはない。

 アメリカの大学を受験すると決めたときも、結婚も離婚も事後報告だったし、政治資金不正疑惑で羽多野が日々マスコミを賑わせていた頃も、控えめに心配の電話をかけてきた程度だ。今回の渡英ももちろん、出発前に「念のため」伝えただけ。遠慮する相手も守るような相手もいない羽多野にとっては、自分が同性と生活をともにすることは、むきになって隠すほどの問題ではない。だが、保守的エリート家庭で育ち、今も過剰なまでに成功や常識にとらわれている栄に同じことを要求するのはナンセンスだ。もちろん彼が今後も自分の性的志向を貫くつもりならばいつかは向き合うべき問題なのだろうが――それはまだ先の話だ。

 とりあえず、栄の希望どおりに部屋は探そう。狭くても古くてもいい、なんならフラットシェアでも構わない、最低限の部屋を。その上で「偶然恋人の家に入り浸っている」のであればきっと、栄の側にも問題はないだろう。羽多野はそう決めた。