秋の日はつるべ落としというが、その逆は何だっただろうか? いや、そもそもそのような表現は存在しないのだろうか。
日の名残がうっすら残る空を見上げれば、三月に入りずいぶんと日没が遅くなってきたことに気づく。とはいえ一番寒くかつ日の短い時期には日本に戻っていたから、羽多野は英国の真冬がどれほどのものなのか肌身では知らない。
栄は「東京とそんなには変わりませんよ、雪もほとんど降らないし」と言っていた。夏のロンドンの緯度にそぐわぬ暑さには驚いたが、冬の気候もどうやら、かつて羽多野が暮らしていたニューヨークと比べて温暖であるらしい。
今日は金曜日。新しい仕事に馴染むために目下は時間外労働もいとわない羽多野だが週末となれば話は別。だが、なんなら栄を誘って外で食事でも――という思惑は朝食のテーブルですでに粉々に打ち砕かれていた。
「俺、今日プールに寄って来るので、少し遅くなります。食事は先に済ませておいて構いませんから」
栄の報告は、羽多野にとって面白いものではなかった。
「……プール?」
泳ぎに行くのはやめて欲しいという希望は何度も告げた。それでも言うことを聞きそうにはないから、実力行使とばかりに肌に情事の跡をつけたこともある。それでも水泳こそが体型と健康維持にはベストな方法と信じて疑わない栄はあきらめてはいないのだった。
「それって、わざわざ金曜の夜にすることなのか?」
チクリと刺さずにはいられずぼやくと、栄のかたちの良い眉がぴくりとつり上がった。
「わざわざ金曜の夜にしたくはないんですけど、やっと誰かさんのつけたみっともない跡が消えたので」
嫌味には嫌味。栄がこういう性格だからこそ、征服欲をかきたてられるというか――羽多野は柄にもなく、どうにかして甘い態度や言葉を引き出したくなる。人並み以上の野心や肉欲はあっても恋愛にはクールだったはずの自分がこの歳になって年下男相手に幼稚な感情をたぎらせることになろうとは、想像もしていなかった。
反対すればするほど栄が頑なになるのはわかっているので、プールの件は深追いしなかった。もちろんあきらめたわけではない。栄がそういう態度をとるならば、羽多野は別の、もっと強引で効果的な方法を探すだけだ。
もともと羽多野は今週末に向けて並々ならぬ意気込みを持っていた。
原因は、これもまた栄の失言というか暴言。週半ば、仕事を終えて帰ってからのリラックスタイムに肩を抱こうとしたところ、なんと「気持ち悪い」と避けられたのだ。本人の言い分としては、正気の状態で羽多野と恋人っぽいスキンシップをはかることが恥ずかしくて耐えがたいのだという。
「まあ、根本的な部分は追々慣らしていくとして……」
問題は、目先の欲求不満。そして日々わがままを増していく恋人にちょっとしたお仕置きをしてやりたいという悪戯心。「正気の状態」で触れられるのが嫌だというなら「正気でない状態」なら文句はないだろう。
一番安易かつ手っ取り早い手段は酒だ。決して栄も酒に弱いわけではないが、差し向かいで量を飲んだ場合に勝つのはいつだって羽多野だった。そして、酔わせれば鉄壁のガードが多少は緩むことは経験上わかっている。
羽多野は仕事を終えると、すっかり顔なじみになったリカーショップに足を向けた。警戒心の強い栄に不信感を抱かせずに強い酒を飲ませるには、ちょっとしたトリックが必要だ。
「やあ、今日もスコッチかい? マッカランの21年が入ってるよ」
すっかりプレミアボトルとなった年代物を勧めてくるのは冗談のつもりだろう。スコッチは好きだが飲んでなくなるものに、そう簡単には大枚ははたけない。いま所有しているジャパニーズウイスキーの多くも高騰前に、しかも大抵は仕事の付き合い半分で手に入れたものばかりだ。
「そういうのは俺じゃなくて、もっと金を持てあましてる奴に言ってくれ」
「だったらボウモアは? アイラモルト好きだって言ってただろう。あまり海外輸出されていないやつがあるから、日本人には珍しいかもしれない」
「アイラなあ、俺は好きだけど」
スコットランドのアイラ島で作られるアイラモルトは、強い燻製臭が特徴だ。羽多野の口には合うが、栄がどのような反応を示すかはわからない。それにウイスキーならば日本から持ってきたとっておきの品々をクローゼットに隠してあるから、わざわざ新しく買う必要はないだろう。
「悪いけど今日はちょっと違うやつを買いにきたんだ。スコッチはまた改めて」
羽多野は高級ウイスキーではなく、手ごろで雑多な蒸留酒――ジンやらラムやらが並んでいる棚を覗き込んだ。
* *
朝の仏頂面が嘘のように、帰宅した栄はご機嫌だった。久しぶりに存分に体を動かして、よっぽど気分がいいのかもしれない。
「夕食は?」
「いや、せっかくだから俺も走って、さっき帰ってきたところ。金曜だし、つまみと美味い酒で軽く晩酌でもどうかと思って」
走ってきたというのは完全な嘘だが、栄を警戒させずに作戦を進めるには方便も必要だ。運動後に炭水化物を摂りたがらないのも知っているから酒は蒸留酒、つまみだって低糖質のものばかり取り揃えてある。
「酒ですか? 年度明けたら健康診断もあるから、節制したいんですけど」
「ちょっとくらいならいいだろう」
テーブルにはナッツやチーズ、サラミといった乾き物から、デリで買ってきた惣菜まで手当たり次第の酒のつまみがスタンバイしている。
「……でも」
「こっちは慣れない仕事でくたくたなんだから、たまには気晴らしに付き合ってくれよ」
そして極め付けは二本のボトル。右手にはウイスキー――これは渡英時に持って来たうちの一本だ。さすがにマッカラン21年ほどではないが、ここ最近の日本産ウイスキーブームのせいでプレミア価格がついている。そして左手には細長い緑色の瓶、これはどこにでも売っているアブサン風味のペルノだが、栄はきっと飲んだことがないだろう。
「なんですか、これ」
案の定、見慣れない酒瓶に興味を惹かれたようで、栄は身を乗り出してくる。
「飲んだことない? ペルノのアブサン、フランスの食前酒だよ。日本でも割とバーには置いてある」
「言われてみれば見覚えはあるかも」
「ほら、谷口くんこの間トルコ料理食べに行ったとき、ラクを飲んでうまいって言ってただろ。同じアニス系だからきっと味や香りも好きだし、なんならニガヨモギとかウイキョウとか薬草の種類が多いから体にもいいくらいだ」
気合が入って喋りすぎたかもしれない。しかし未経験の酒――しかも体に良いと聞かされすっかりその気になったのか、栄はついに羽多野の手からボトルを取り上げた。
「へえ……水かソーダで割ればいいですか?」
興味津々で身を乗り出してくる。嫌だと言わないのは要するにオーケーの印。わかりづらいながらもこれが栄の意思表示だ。
ショットグラスに澄んだ黄緑色の液体を注ぐ。水を加えれば瞬時に液体は白濁した薄黄色に変わると同時に独特の薬っぽいにおいが立ち上る。
「アニスの香りが平気なら問題ないとは思うけど、多少苦みがあるから砂糖を混ぜることもある。どうする?」
「いりません」
案の定、栄は糖分の添加を断った。
小さなグラスを持ち上げて乾杯しながら、羽多野はほくそ笑む。もちろん目の前にある酒のアルコール度数が約七十パーセントで、水で割ってもストレートのウイスキーに匹敵することは黙っておく。正気で抱かれたくないと言ったのは栄なのだから、自ら言い出したことの責任はしっかり果たしてもらおう。
なんせ、週末の夜は長い。