――どうも、変な夢をみていた気がする。
カーテン越しに薄明るい朝の光が入ってくるのに羽多野は目を細める。酒には強いタイプだし体力にも自信がある。多少飲み過ぎようが睡眠不足だろうが寝起きが悪いことはほとんどないのだが、ざらりとした感触が体の中に残っていた。
そうだ、昨晩「スタンド・バイ・ミー」を観た後で、少年時代の夢はなんだったかという話をした。あれに引きずられたに違いない。
嫌な思い出、というほどでもない淡い記憶だ。父親が仕事を失い無茶な渡米を決める前の、ある種牧歌的だった時代の思い出。
とはいえ振り返れば、羽多野がぼんやりと格差のようなものを認識しはじめたのはあの頃だ。ここ十年、二十年で更に再開発が進み様相も変わったが、羽多野が幼かった頃は今よりずっと23区内の地域格差は大きかった。もちろんそんなもの、渡米後に感じたギャップからすれば可愛いものではあるのだが。
遠山京香という名前自体、ずっと忘れていた。確かあの年の学年末に、彼女は別の区に引っ越していった。本人の中学受験のためという噂もあったし、妹の小学校受験のためという噂もあった。
放課後彼女の髪にリボンを結んでやったあの日以降も、ふたりの距離感は変わらなかった。あえて近づくことも、会話を交わすこともない、ただのおとなしいクラスメート同士。ただ羽多野は密かに、日替わりで彼女の髪を飾るリボンや小物を楽しみにしていた。それだけだ。
あの淡い気持ちを初恋と呼ぶのかすら微妙だ。だが、もしあれを広義の恋だとするのならば――ひとつだけ確かなのは、人間の好みなどそうそう変わらないということ。
アトランタでいけすかない駐在員や外交官の子女たちに見下され、現地人から言葉を解しない白痴扱いされることに傷ついたことが原因で、不必要なまでに強烈な上昇志向と反骨精神を身につけたのだとばかり思っていた。だが、こうして記憶の深い場所まで探ってみれば、それ以前からいわゆる「お育ちの良さ」に惹かれていたということなのか。憧れが踏みにじられたことで征服願望に転化したのだとすれば、それはそれで悲劇と言えなくもない。
それにしても、三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだ。
視線を左に動かすと、栄は羽多野に背中を向けて体を丸めるようにして眠っている。
抱き合うようになってしばらくが経ち、セックスしない夜だって気が向けばここで眠ることもある。寝室に鍵を掛けられていた当初と比べればずいぶん警戒心は薄くなった。とはいえ恋人らしく抱き合って眠るとか、腕枕とか、そういった甘い行為は今も栄のお気には召さないらしい。
同じベッドにいるのに背を向けて胎児のような防御姿勢をとられるのは愉快ではないが、これも栄らしさの一部には違いない。少しずつなだめてすかして、薄皮を剥がすようにして、それでもまだまだ先は長い。だから満たされることはなく、飽きることもないのだ。
マットレスのきしみに反応してか、栄も身じろぐ。どうやらお目覚めのようだ。
「……ん? 何時ですか」
「七時前。でも日曜だから、いくらだって寝てていいだろ」
甘やかそうとしたつもりが、どうやらそれは栄の望む言葉ではなかったようだ。まぶしそうに目を細めたまま「良くない」とつぶやいて、のろのろと体を起こす。
「目を通しておきたい資料があるから、今日は午前のうちに泳ぎに行くって決めてるんです」
まるで「何もしない余暇」は悪であるかのように、栄は休日も規則正しく起きて、日中を予定で埋めることを好む。羽多野も若い頃は勉強や仕事に打ち込んだので気持ちはわかるが、放っておくと限度を超えて自分を追い詰めるタイプの栄には、意識して隣でブレーキを引いてやる必要がある。
「真面目だな。休日くらい仕事のこと忘れろって言ってるだろ」
そう言って抱き寄せるときの勝率は五分。素直に羽多野の怠惰に飲み込まれてくれることもあるが、今日のところは作戦は失敗だ。
「で、後で困るのは俺なんですから。無責任なこと言わないでくださいよ」
うっとうしそうにすり抜けられて、羽多野の腕は宙に浮いた。
朝から仕事で頭がいっぱいの栄の気をちょっとでも引きたくて、羽多野は別の話題を探す。
「そういえば、思い出したよ。俺の少年時代の夢」
「……そんな話しましたっけ?」
「冷たいな。聞きたがったの君だろ」
羽多野がわざとらしくがっかりした声を出すと、栄は眉をひそめて前夜の記憶を探る。
「ああ、そういえばそんな話しましたね。寝起きに唐突に言われたってわかんないですよ」
なぜ今さら昨晩の話を蒸し返すのか、と怪訝な栄だが、「聞きたい?」と前のめりになる羽多野の勢いにおされたようにうなずいた。
「きれいでお育ちが良くてお上品な、俺には釣り合わないような相手に憧れてたなって」
羽多野の告白は、栄を落胆させる。
「……夢って、そういう話じゃなかったですよね。もっとほら、職業とかの。っていうか、あなたの発想っていちいち下劣」
昨晩栄が打ち明けた少年時代の夢は「父の跡をついで弁護士になること」。それと比べれば確かにずれた話題だ。だが羽多野は気にせず続ける。
「いや、ガキの頃の話したからか夢をみたんだよ。俺の通ってた小学校ってザ・下町って感じで、汚れても破れてもいい服着てる子が大多数なのに、ひとりだけいたんだよ。いつもひらひらした服着て、レースの靴下履いてる女の子が」
「それの何が珍しいんですか?」
「俺の学区じゃレアだったんだよ。そんなの着てたら汚れる遊びもできないだろ。悪い子じゃなかったけど、女にもうっとうしがられてたし」
栄の通っていた学校ではもしかしたら京香のような生徒の方がマジョリティだったかもしれない。いくら下町を強調したところで、山の手育ちの栄には「ひらひらの服」や「レースの靴下」がどれほど珍しいかは理解できないようだ。
「服装で虐めるなんて、野蛮ですよ」
栄は優等生らしく眉をひそめる。身なりや振る舞いで人を値踏みしてばかりのくせに、相手が子どもとなれば人並みの良識が顔を出すのだろうか。
だが栄にとって問題はそこではないようだ。さらに眉根に深いしわをよせて、羽多野に詰め寄る。
「……で、その一人だけひらひらを着てたのが羽多野さんの初恋の相手で、その子と幸せな結婚するのが夢だったって? わざわざ朝っぱらからそんな話をしたかったんですか?」
しまった。懐かしさにかられて、「女」「結婚」が栄にとって危険な単語だということを忘れていた。それに羽多野が言いたかったのはそういうことではない――。
「初恋なんて概念もないガキの頃だって。ただ、ちょっとそういうのに憧れてたなって思い出しただけ」
「で、その子とは?」
栄のしつこさに羽多野はたじろいだ。
まさか本気で十歳そこらの頃の初恋未満の話を気にしているのか? 呆れて――それ以上に、微笑ましさと、嫉妬されたことへの喜びが胸に広がる。だがそれをあからさまに態度に出すのも逆効果だ。
「何もあるはずないだろ。渡米前だから小三とかそのくらいだし、あっちはすぐ転校しちゃったし」
「転校?」
「ああ。中学受験の準備するのに、山の手だか世田谷だかに。本当か嘘か知らないけど、合否判定に居住地域が影響するとかしないとか」
「まさか」
羽多野の言葉に、栄は首を振る。居住区域で受験の合否が決まるなど、そんな差別的なことはありえないというのが彼の言い分だ。
いくら三十年前だろうが、表だって親の職業や居住地域を理由に選抜を行うなどということはないだろう。だが――「適正」「総合的判断」そういった言葉の裏にある様々な、言葉にはされない判断基準がある。それは受験だけでなく、おそらく人生の多くの側面で。それらのフィルターは栄のような生まれの人間にはあまりにも縁遠いゆえに、存在すら認知されない。
栄自身は経済官僚として、都内の中小企業や工場地域の視察だって、かなりやっているはずだ。だが「視察にくる高級官僚」に見せるための企業自体が選別をされたものだ。
良いとか悪いとかではなく、この世界には栄には見えていないものがたくさんある。もちろん、羽多野には見えていないものもたくさんあるのだろう。
とはいえ、今のふたりに重要なのは格差論争などではない。
「で、憧れのお嬢様がいなくなって初恋にやぶれた羽多野少年は、心の傷を負ったとアピールしたいんですね。わざわざ俺に」
「だから初恋とかそういうんじゃないって。嫌な話題だったなら謝る」
デリカシーがないことをねちねちと責め立てられて羽多野は白旗をあげるしかなかった。
――そして、本当に言いたかったことを口にする。
「お嬢様は王子様になったけど、子どもの頃描いた理想よりずっといいものを手に入れたって、俺はそういう話をしたかったんだよ」
「……後出しで、そういうこと言います?」
つんとした態度は崩さないものの、自らを高級な男だと言われた栄はまんざらでもなさそうだ。でも、素直に丸め込まれるのも照れくさいのか羽多野の肩を小突いてからベッドをそそくさと降りてしまう。
そして最後に思い出したように、もう一撃。
「あと、手に入れた、なんて思い上がらないでください。調子に乗ってると足下すくわれますよ」
つまり、ちょっとくらい隣で眠ってくれる夜が増えたからといって、気を抜いてはいけないということだ。
「……はいはい、リストラされないように下僕のお仕事頑張らなきゃな」
「心にもないことを、また」
羽多野も栄を追ってベッドを降りると、意気揚々と不機嫌な王子が肩を冷やさないようパーカーをかけてやる。
ここにあるのは間違いなく、栄にとっても自分にとっても、思い描いたものとはほど遠い未来。なりたかったものにはなれず、羽ばたこうとすれば墜落して。でもその先が必ずしも絶望であるとは限らない。
さて、起き抜けの話題選びの失敗を償うには他になにができるだろう。ジムに行く前ならば糖質もタンパク質もしっかり目でいいはずだから、とりあえず朝食の準備は完璧に。
「あ、ジム行くならついでに本屋に寄っていい?」
「当然のように一緒に来ようとしないでくださいって、いつも言ってるでしょう」
その答えのどこにも「ノー」が含まれていないことにほくそ笑みながら、羽多野はリビングのカーテンを開ける。
今朝のロンドンは、抜けるような青空が広がっている。
(終)
2021.10.30-11.06