看護学科が出展するのは十月下旬の土曜日。尚人は昼すぎまで仕事だというので、未生が展示の手伝いを終えた頃に大学の正門近くで待ち合わせることにした。
未生は、自分でも意外なくらいにその日を楽しみにしていた。はじまりが「秘密の関係」だっただけに、未生にとっては尚人と白昼堂々並んで歩くこと自体に特別な感慨がある。それどころか今回は、いつ知り合いと出くわすかもわからない大学でのデートなのだ。
もし友人の誰かに尚人といるところを見られて関係を問われたらどうしよう。尚人が普段やっているように、元家庭教師と生徒の振りでもしてみようか。不安がないわけではないが、ちょっとしたスリルは二人の関係にとって甘い刺激になるだろうと思った。
冷静に考えれば、友人たちの頭にある未生の「年上の彼女」のイメージがが尚人と結びつくことなどまずないし、そもそも未生が内心でどれほど自慢げだったとしても、平凡なアラサー男の尚人を連れていることが羨望に結びつくこともありえない。それでも、平日の学生生活と土日の尚人との甘い生活――一種の二重生活のように隔絶したふたつの世界が交差するのだと思うと未生の心は躍った。
そして、いざ学祭当日。某大型ディスカウントショップの黄色いビニール袋を手渡され、怪訝に思いながらも中身を取り出した未生は硬直した。
「おい、なんだよこれ」
安っぽいパッケージ写真でポーズをとっているのは、太ももの真ん中くらいまでしか丈のない、いわゆる「ミニスカナース」の扮装をした若い女。つまりこれは、非実在的なセクシーナースを模したコスプレ用の衣装であるらしい。
本日の企画の総監督として意気揚々と動き回っている範子は立ち止まり、「見ればわかるだろう」と言わんばかりの冷たい視線で未生を一瞥した。
「何って、今日の衣装よ。ナース服」
「だとしても渡す相手間違えてる。俺のじゃない」
「いいえ、間違いなく笠井くん用。サイズ見てよ」
言われて改めてパッケージに視線を落とすと、サイズ欄には「3L」の文字が鎮座している。
「笠井くん背も高いからちょっと丈が足りないかもしれないけど、まあ入るでしょ」
この手のコスプレ衣装の存在は知っているし、女装に使われることがあるというのもなんとなく理解はできる。だがそういうことをするのは特殊な趣味の人間なのだと思って生きてきた。まあ、ラブホテルに準備されていれば、相手にちょっと着せてみるくらいなら趣向が変わっていいかもしれないが――だとしても、未生は着る側ではない。
そもそも今日はコスプレパーティではなく、れっきとした看護学科の出し物だ。世の中のナースはこんな短い丈のナース服など着ない。現代では多くの病院で動きやすさを重視して、女性スタッフに対してもストレッチの効いたパンツタイプの医療着が採用されていることを思えば、こんなものナンセンスもいいところだ。
「……ふざけんな」
未生はビニール袋ごとナース服を範子に突き返す。その乱暴な仕草はどうやら気の強い範子の癪にさわったらしい。
「ふざけんなって、何よ。文句があるならちゃんと打ち合わせ会議に来て意見すれば良かったでしょう? 勝手に決めてくれってミーティングすべて欠席したのは笠井くんじゃない。こっちはちゃんと多数決とって決めてんのよ。白紙委任して当日に文句言うってどういう了見?」
口の立つ範子は未生を正面から睨みつけ、立て板に水のごとくまくしたてる。さらには先週「男子はミニスカナース、女子は救急医の仮装をすることに決定した」旨を参加メンバー全員にメールで連絡したのだと、勝ち誇ったように続けた。
言われてみれば、学祭に関するメールが何通か届いていたような気はする。ただ、未生がそれらを読まずにゴミ箱送りにしていただけで――となると、理屈で戦うのはどうにも分が悪い。
しかもタイミングの悪いことに、準備室からすでに着替えを終えた面々が出てきた。
「うわ~、なっちゃん格好いい! 宝塚みたい!」
歓声に目をやると、看護学科随一のモデル系美女と評判高い関なつめが、救急救命医をイメージしたのであろう上下紺色のスクラブにドクターコートを羽織っている。確かに様にはなっているが、かといって似合っていれば何だっていいのかと疑問は残る。
「なんでこんなことになってんだよ…」
思わずこぼしたつぶやきを、範子が拾う。
「だって、いくらイケメン美女を揃えたところで、絵面が地味じゃ盛り上がらないじゃない。かといって女子にミニスカナースじゃポリコレ的にねえ」
「男にならセクハラにならないって考えも、いいかげん時代錯誤だぞ」
そのあたりは一応「民主的手続き」を経ているということなのだろうが……虐げられた少数派の声にも耳を傾けるのが現代民主主義というものではないだろうか。
しつこく抵抗を示す未生に、範子がそっと、まるで秘密を聞き出そうとするかのようにささやいた。
「笠井くん、そうは言っても実は一度着てみたいって思ってなかった?」
「全然」
「でもほら、篠田くんなんかは――」
どっと笑いが沸いた方向に目をやると、そこには「受付もしくは前説担当」を拝命していた篠田の姿がある。丈の短いナース服からは筋張ったがに股の生足がにょっきりと伸びて、どこからどう見てもお笑いだ。
「篠田、やばい。全然似合わない。ていうかグロい」
「それで外歩いたら、即通報だな。前科つくぞ」
口々にからかわれても、ノリの良い篠田はいじられるのは名誉とばかりに自身の脚を指す。
「おいおい、せっかくこの日のために脚もツルツルに剃ったんだから、通報なんて言うなよ。俺毛深い方だから大変だったんだぜ。剃刀負けするし」
「え~、言ってくれたら手伝ったのに。ブラジリアンワックス使えば一発でツルツルだって」
篠田の脱毛跡が痛々しく肌荒れしているのを、女学生が不憫そうに撫でさする。一体この空間は……? 未生は自分ひとり世界から取り残されたような孤独感におそわれた。
斜に構えたタイプだったから、篠田のように体を張って自らを笑いのネタに変えることには馴染まない。体育会系ノリは大嫌いで、上下関係をたてに恥ずかしい出し物を強要された経験もない。お勉強ばかりやってきた真面目な学生が多いと踏んでいたこの大学で、よりによってこんな展開が待っているとは――まさしく青天の霹靂だ。
未生の周囲だけどんよりとした空気がただよっていることに気づかないのか、非日常的な服装にテンションのあがった篠田が満面の笑顔で近づいてくる。
「お、笠井はまだ着替えてないのか? 脚の毛剃りたいならシェーバー貸してやるぞ。ここだけの話だが、女子おすすめのブラジリアンワックスってやつは死ぬほど痛いらしい」
「……おまえ、そんな格好して恥ずかしくないのか」
「普段からこんな格好してろって言われたら困るけど、お祭りなんだから羽目外した方が楽しいじゃん。同じ馬鹿なら踊らにゃ損ってね」
それから未生が浮かない表情をしていることにようやく気づいた様子で、そっとささやいた。
「もしや笠井、また格好つけてひとりだけモテようとしてるのか?」
篠田にとってはただの冗談。だが、この大学に入った直後から「年上女と付き合うミステリアスなイケメン」キャラを押しつけられて、うんざりしている未生にとっては心臓に刺さる言葉だった。
それに――やっと生い立ちや家族を巡るあれこれを脱ぎ捨てて、自分の人生を生きようとしているのだ。いつまでも斜に構えた態度をとり続けるのではなく、どこかで殻を破りたいという気持ちはあった。もちろんそれがミニスカナースコスプレとイコールで結びつくとは思っていないが。
未生は悟った。雰囲気に飲まれて酔狂な格好をしたところで、周囲はそれをあざ笑ったりはしない。それどころか強硬にコスプレを断れば、学科内での未生はノリの悪い奴という烙印を押される。
要するに、腹を括るしかないということだ。
「……着ればいいんだろ、着れば!」
「え? 何? 笠井なにマジギレしてんの?」
突如声を荒げて、ビニール袋を手に準備室に向かう未生を、篠田は目を丸くして見送った。
今日は尚人とのデートだからと、普段大学に来るときよりはコーディネートに気を遣ってきたつもりだ。その服を脱ぎ捨てて、未生は勢いにまかせてコスプレ衣装のパッケージをびりびりと破る。
服の前後だけ確認して一気に頭からワンピースをかぶる瞬間には、サイズが小さすぎて入らなければいいのにという期待が一瞬頭をよぎった。が、抜け目ない範子のサイズ選びは完璧で、安っぽい化繊のナース服はきっちり未生の体を包み込んだし、背面ファスナーは最上部まで上がってしまった。
スカートはタイトなタイプで、全体的に肌に沿うようなデザイン。未生の身長が高いせいなのかパッケージ写真以上に丈が短く、ほとんどマイクロミニといっていい。別に男のパンツが見えたからといってどうでもいいはずなのに、すかすかした下半身はやたら頼りなく感じられた。
短いスカートの裾から伸びるのは紛れもない男の脚。毛深い篠田と違って未生の脚は、夏場にハーフパンツを履くときにもすね毛の処理の必要性を感じない程度には薄い。わざわざ短時間のコスプレの為に剃るほどでもないだろう。何より下手に処理して、後で尚人に気づかれたら言い訳に困る。
「あら、意外と似合うじゃない」
「ごついのはごついけど、やっぱりイケメンは女装しても美人なんだな」
ナース服の未生は意外にも、笑いではなく感嘆の声で出迎えられた。
せっかくなので化粧もするかとか、ストッキングを履いてみてはどうかとか、余計なお世話は全力でなぎ倒し、未生はともかく自分の出番を早々に終えてこの目障りな服を脱ぐことばかりを考えていた。
*
体を張って客引きに向かった篠田の話術もおそらくはいくらかは貢献したのだろうが、範子の目論見は大当たりし。看護学科のデモンストレーションは昨年とは桁違いの盛況となった。
二交代制で応急処置や救命処置の方法を説明し、人形相手に実演するというのは、服装が倒錯的であることにさえ目をつぶれば、講義内容の復習としても悪い機会ではなかった。
中には終了後に寄ってきて、さっと連絡先を渡してくる女子もいた。尚人という恋人がいる以上、それらのメモはすべてゴミ箱行きの運命ではあるが、こんな服装をしていても格好良いと言われること自体は未生の自尊心をくすぐった。
そして盛況のまま、看護学科のデモンストレーションは無事、午前の部を終えた。
午前のみでお役御免となる未生は、ようやく恥ずかしい衣装を脱げるとばかりに一目散に準備室へ退却しようとする。そのときだった。
「あの、そういうのは困ります」
狼狽した声に振り返ると、関なつめが男に絡まれていた。
「いいじゃん、救命処置の方法教えてくれるっていうから来たんだからさあ」
学生風ではあるが、内部の人間なのか、それとも部外者なのか。ややろれつの回っていないところからして、酒を飲んでいるのかもしれない。学祭の会場内で飲酒は可能だが、だからといって酔っ払って人に絡むのが許されるわけではない。
「あくまで本日はデモンストレーションですから、個別にお教えするとか、そういう場では」
「いいじゃん、美人の救命医さん。俺にも人工呼吸実演してよ。息が苦しいんだよ」
いくらメンズのスクラブとドクターコートを羽織っているとはいえ、なつめの美貌は目立つ。気丈に対応してはいるものの、腕をつかまれたなつめは身動きが取れなくなっていた。
「あの、すみませんが……」
見ていられないとばかりに栗原範子が仲裁に入ろうとする。だが、相手は酔っ払って女に絡むような輩だ。範子が入ったところで女だからとなめた態度をとり続けるに決まっている。
「おい」
いきなり長身の未生が割って入ってきたので、男はあきらかに狼狽した。いや、ただの長身の男ではなく今の未生は「ミニスカナースコスプレを着た男」だ。
「な、なんだよおまえ。気持ち悪いな、寄るなよ」
こっちだって好きで気持ち悪い格好をしているわけではない。男の嫌悪感丸出しの言葉に、未生の中でもぷつりと何かが切れる。
未生は男の腕をとってなつめから引き離すと、思いきり引きつった微笑みを浮かべて彼を床に押し倒した。
「そんなにマウス・トゥ・マウスやって欲しいなら、俺がやってあげましょうか? なんなら心臓マッサージも。ガチでやったら胸骨折れちゃうかもしれませんが、緊急事態だから仕方ないですね~」
顔を近づけると、ぷんとアルコールのにおい。これだから酔っ払いは嫌なんだ。
「おい離せよクソ男、キモいんだよ。寄るな!」
もちろん本気で口をくっつける気などないし、胸骨を折るようなつもりもない。ただ、酒を飲んで人に迷惑をかけるような奴には、ちょっとお灸を据えてやった方がいい。そして未生は完全に男を押し倒した格好になり――ちょうどそこに、トイレに行くと出て行ったきりだった篠田が戻ってきた。
篠田は、ひとりではなかった。
「おい、笠井。知り合いが探してたぞ~」
「うっせえ、今取り込んでるんだよ!」
邪魔をするなとばかりに顔をあげた未生の目に飛び込んできたのは――なんと、ミニスカナース姿で男を押し倒す恋人を目の当たりにして、硬直した尚人の姿だった。