アキヒコの暮らすテムズ川近くの住宅街から車を走らせ、郊外のラザフォード邸に近づくにつれて車窓には緑が増え、のどかな空気が漂う。
ベネットの父は、ラザフォード家住み込みの使用人だった。話に聞いたところでは、その父も、さらにその父も、代々ラザフォード家で仕事をしてきた。そもそもこの地域の多くの家は、かつては領主であったラザフォード家に何らかのかたちで仕えていたのだ。まったく珍しい話ではない。
ラザフォード家で生まれ育ったベネットにとって、人生とは「父と同じようにこの家で終生暮らし、主人に忠実に仕え、自分の後を継いでこの家に仕える子をもうける」ものと予定されていた。それ以外の道が自分にあろうとも思ってはいなかったのだ。
だが、人生とは往々にして予定通りには進まないものだ。
大邸宅に多くの住み込み使用人を抱える貴族の生活スタイルは、もはや時代遅れになりつつあった。オールドスタイルを好んだ先代のラザフォード爵が亡くなると、後を継いだ若きサー・ラザフォード――現在では年老いた、アキヒコの祖父――は、家にまつわるすべてをアップデートすることと決め、それをきっちりと実行に移した。
多くの家業のうち時代遅れと思われるものを容赦なく清算し、将来性のある事業に軸足を移した。屋敷自体は引き続き維持管理するが、住み込み使用人は少しずつ減らすこととした。
そんな若き日のサー・ラザフォードが下した決定のひとつが、長年家に仕えたベネット家の息子を大学にやることだった。
エドワード・ベネットは幼い頃から勉強が得意だった。物事を細かく調べたり、深く考えたりすることが好きだった。いつも片手に本を持ち、何かと理屈っぽい彼は他の使用人の子どもからは煙たがられることも多かったし、親からは「そんなことより家具の直し方や庭木の剪定の仕方を学んだ方が良い」と説教された。
自身としても、将来は父と同じようにラザフォード家に仕えるのだと思っていたので、上級の学校へ進むという発想は持ち合わせていなかった。金もなければ、資格もないのだから、そもそも期待もしない。そういう時代だったのだ。
ラザフォード家に仕える以上、幸いにして一生食いっぱぐれることはない。食うに困らなければ、勉強も読書もいくらだって余暇の趣味にできる。それで満足だと思っていたから、サー・ラザフォードの「進学したいとは思わないか?」という質問は青天の霹靂だった。
「気づいていると思うが、この家の運営は徐々に縮小し、住み込みの使用人の数は減らしていくつもりだ。つまりエド、君が父親と同じようにこの家で生活し同じような仕事をしていく将来について約束することはできない」
思い描いていた将来像が音を立てて崩れ、ショックを受けるベネットにサー・ラザフォードは続けた。
ベネットの学業成績が極めて優秀であることは知っており、その能力を埋もれさせるのはもったいないと思っている。学費はすべて出してやるから、大学へ進み、父親とは違う人生を探せと。もちろんその上で――ビジネスその他、何らかのかたちでラザフォード家と良い関係を築けるのならば、幸いだと。
かくしてベネットは、大学の法学部に進み、弁護士となった。かつてラザフォード家のお抱え弁護士だった男は年老いて、跡継ぎはいなかった。その引退と共に入れ替わるように、ラザフォード家がベネットの顧客になるのは当然の流れだった。
もしかしたら、今の好々爺的な姿からは想像できない、狡猾で冷酷なビジネスマンとしての顔を持ち合わせていたサー・ラザフォードはそこまで予想した上でベネットのスポンサーになったのかもしれない。
そのような経緯ゆえに、ベネットは弁護士として仕事をしながら、個人的な恩義の部分で「お抱え弁護士」以上の役割をこの家で果たしているのだ。
運転しながらぼんやりと過去を思い出しているうちに、屋敷に着く。
ちょうど夕食の支度を終えたマーサが帰宅の準備をしているところだった。彼女とも、お互い少年少女だった時代から知る仲だ。
「あら、エド。来るなんて知らなかったから、夕食は旦那様の分しか用意していないわ」
「いや、私はいらんよ。書類を一枚渡したら、帰る」
手にした封筒をひらひらと振ってみせると、マーサは大げさに肩をすくめてみせた。
「一枚の書類のために、たいへんね、あたしみたいな飯炊き女には、紙切れ一枚のために駆けずり回る意味がわからないけれど」
「まったくだ。この紙切れを持ってさっきはアキヒコ様のところへ行って、あの嫌味なロボットの辛気くさい顔を見て、坊ちゃんのわがままをきいて」
ふふ、とマーサは笑う。おそらくは、週末ごとにこの家にやってくる愛らしい少年の姿を思い浮かべたのだろう。彼女もまるで息子か孫のようにアキヒコのことをかわいがっている。
「あら、坊ちゃんのところへ行ったの?」
「ああ、信じられるか? あの家、リフトのない最上階だ。上り下りだけで一苦労だよ。まったく家選びといい、ロボット選びといいエマ様は趣味が悪い」
「でも、そういうのエマ様らしい気もするわね。お優しいんだけど意地っ張りで頑固で、正義感も強くて。……最後まで旦那様からは一銭の援助も受けずにそういった場所で生活されていたのね」
「ああ、そうだな」
ふたりの間に、懐かしさと寂しさが漂う。
ベネットにとってのエマは、主人の娘であると同時に妹のような娘のような、特別な存在だった。ストロベリーブロンドをなびかせた、はつらつとした美しい娘。生まれたときから彼女を見てきた。
だから、母親の病気をきっかけにサー・ラザフォードとエマの関係が悪化し、ほとんど勘当のように彼女が出て行ってしまったことは残念で仕方なかった。もちろんマーサも同じように感じていたのだろう。
エマは父親との縁を切ったまま、名も知れぬ男との間に子を宿し、ひとりで育てようとした。そして――病に倒れ、幼い息子・アキヒコを遺して逝くことを覚悟しながらも、頼ったのは父親ではなく、蓄財をはたいて契約した家事育児支援ロボットだった。
そのことをベネットは今も寂しく思っているし、だからこそなお、サーシャというあのロボットを苦々しく思ってしまうのだ。
「そういえばアキヒコ坊ちゃん、最近では私の手伝いもしてくれるんですよ。いいって言うのに、家ではサーシャの手伝いをさせられて慣れているんだって。頼もしいわ」
しんみりとした空気を振り払うようにマーサが話題を変えるが、そこにも「サーシャ」の名前。ついさっき出された苦い紅茶のことを思い出して、また腹が立ってきた。
「まったく、あのロボットめ。坊ちゃんを家政夫に育てるつもりか」
「あら、今の時代、いくら爵位のある男子だってひととおりの家事くらいできなきゃ結婚できないわよ。娘さんに聞いてみなさいよ」
そんなこと、わざわざ聞くまでもない。家事や身の回りのことを妻に任せっぱなしにしていることで、ベネットは娘にしょっちゅう叱られている。
ごほんと大きく咳払いをして、ベネットは旗色の悪い会話を打ち切った。まったく、サーシャの話題がでるとろくなことはないのだ。
サー・ラザフォードは書斎にいた。
ノックして入室すると、ベネットは封筒に入れた書類を差し出す。中身は家事育児支援ロボット、型番AP-Z92-M……この家での通称〈サーシャ〉の法定点検結果が入っている。
「結果は? 異常や不具合は?」
「いいえ、前回同様問題はありません。リストア品にしては驚くほど状態は良いとのことで、細かな部品交換などのメンテナンスだけを行いました。腕の傷は――アキヒコ様のご希望もあって修復はしていませんが、こちらも動作等に影響はありません」
「良かった。サーシャに何かがあれば、アキヒコが心配するだろう」
脳天気な主人に、ベネットはため息をつく。
「良かったといって、いいんですかね。肉親ならともかく、あいつはしょせんロボットですよ。母親離れできない息子ってだけでも問題視されるのに、育児ロボットにいつまでたってもべったりじゃあ先が思いやられます」
「まあ、そう焦るな。アキヒコもまだ子どもだ。あと数年もすれば世界も広がって、いつまでもサーシャにベタベタしてばかりではないだろう」
「だといいんですが。……それに私は、どうも例の問題が気になって」
トントンと書面の記載の一部を指で叩いてみせると、サー・ラザフォードはちらりとそこに目をやったものの、興味なさそうに視線を逸らしてしまった。
「だが、あくまで過去の話で、現在は完全にリストアされているのだろう」
ベネットはうなずいた、確かにソフトウェア上は完全に、過去の機能や記憶については消去され、上書きされている。書類の記載もその旨を保証するものだ。
「ですが私も古い人間なもので、この手のことはどこまで信頼すればいいのやら。ああいう機能のあるロボットがアキヒコ様のそばにいるというだけで、なんだか気分も良くないですよ」
「まあ、考えたところで仕方ない。今のところ問題ないのだから、見守るしかないだろう」
まったく、いくらお値打ち掘り出しものとはいえ、エマ様だってあんな商品に手を出さなくても良かったのに。内心でぼやくが、孫にはてんで甘いサー・ラザフォードが楽観視している以上、サーシャを無理やりにアキヒコから引き離すこともできそうにない。
それにまあ、嫌味な野郎ではあるが、ベネット自体サーシャのことが嫌いというほどではないのだ。思春期にさしかかり生意気さの増してきたアキヒコへの文句や、孫に甘すぎるサー・ラザフォードへの不満。日々のちょっとしたもやもやを吐き出したいときに、一番理解し合えるのは悔しいが、あの機械でできた若い男――。
「まあ、そうですね。引き続き注視していくことにします。ではこちらは失礼して……」
ベネットは、サーシャにもアキヒコにも見せないままの、検査結果書類の付属書を破り捨てる。こんなもの、下手にとっておいて人目に触れては危険だ。
AP-Z92-Mに関する特記事項。そこに書かれているのは、リストアされて「家事育児支援ロボット」という新たな機能を持つようになる以前の彼のこと。別の持ち主のもとで、まったく別の役割を果たしていたであろうかつての姿については――決してアキヒコに知らせるわけにはいかないのだ。
(終)
2022.07.23-2022.07.24