「終了。解答用紙を集めます」
肌身離さず身につけているレトロな懐中時計を凝視していた教師がそう告げると、教室中のあちこちからため息が聞こえてくる。
絶望、安堵。発した主によってその意味は様々だろう。
僕――アキヒコ・ラザフォードの場合は「解放感」。
最後の一科目のテストが終わり、地獄の試験シーズンはようやく終わりを告げた。結果が戻ってくれば口うるさいことを言う人間、正確にはロボット一体と人間ひとりがいるのだけれど、少なくともそれまでの間はすべての厄介ごとから解き放たれた気持ちに浸りたい。学ぶこと自体が嫌いなわけではないが、試験という一定の目標のために遊びや睡眠を削って机に向かうのは、どうにも性に合わないのだ。
僕がこの「カレッジ」に転入してからは、五年近く経った。おじいさんのような老人からすると五年というのは「あっという間」らしいが、僕にとって五年というのは、この世に生を受けてからのおおよそ三分の一。お母さんを亡くしてからの期間に限定すれば約半分。つまり、相当に長い時間であるということになる。
とはいえ、不思議なことではあるけれど、背が伸びるにつれて少しずつ時の流れが速くなっているような気がする。お母さんと暮らしていた頃、サーシャが家にやってきた頃、まだベンや他の友だちと一緒に公立の小学校に通っていた頃。つまり僕が今よりも小さかった頃は、もっとずっと一日の過ぎるのが遅かったような気がする。
もちろん一年が三百六十五日であることも、一日が二十四時間であることも変わらないのだから、何もかも僕の「気のせい」に過ぎないのだけれど。
学校選びで大いに揉めた日々のことも、今ではずいぶん昔のことのように感じる。
揉めたといっても、サー・ラザフォード、つまりおじいさんの母校に執拗にこだわったのはベネットさんだけだった。僕の進路問題の詳細には関知しないという宣言どおりサーシャは「我関せず」を貫いたし、おじいさんは「最終的にはアキヒコの意思を尊重する」と言ってくれた。
頑固で偏屈なベネットさんも、おじいさんの決定にはあらがえない。僕はたくさんのパンフレットを見比べて、ときにおじいさんの意見も聞きながら、数年前に全寮制の学生に加えて通学生の受け入れをはじめた別の学校を選んだ。
僕の転校は「ラザフォード家の跡継ぎにふさわしい伝統と格式のある学校で、学力だけでなく相応の社交術や人脈を身につけること」という聞いているだけでむず痒くなる理由によるものだったけれど、その点ではこのカレッジも十分目的には適っているように思えた。入学してからもその印象に変わりはない。
「やあ、アキ。どうだった?」
大きく伸びをしてから、前の席に座っているロドリゴが振り返った。彼はひとつ試験が終わるごとにこうして僕に手応えをきく。そんなことしたってロドリゴの試験結果には関係ないのだが、心配性なので他人の反応をもとに試験の難易度を推し量ることをやめられないのだ。
「まあまあかな。数学は割と得意だから。でも歴史と文学の失敗を挽回できるほどじゃないよ」
僕の成績は総合的には真ん中より少し良い程度。どちらかといえばサイエンス系の科目の方が得意なので、リベラルアーツを得意とするロドリゴとはそもそもタイプは真逆だ。
「そっか、俺は数学全然できなかったよ。あとラテン語もいまいちだった。うちの父親、ラテン語の成績気にするんだよ。いくらラテン系でも、いまどき使われてない言語だからどうでもいいと思うんだけど」
言われて、ラテン語という科目の存在を思い出した。この学校では外国語をふたつ選択しなければいけない。時代錯誤だと僕ははなから選択肢に入れていないけれど、教養としての重要性からあえてラテン語を選んでいる生徒も多くいる。
「でも、ロドリゴはフランス語もイタリア語もできるんだろう?」
「俺からすれば、ラテン語は完全に別物だよ。古典ギリシャ語を学ぶのと同じくらいナンセンスだ」
ロドリゴは西の国からやってきた留学生で、寮で暮らしている。
十歳そこらでわざわざ遠方の島国に留学してくるなど、僕からすれば理解不能だけれど、彼の家系では決して珍しくないことらしい。
ロドリゴの親は王家の血を引いていて、今は国内外で幅広い事業を展開している。同級生の中でもおそらく一、二を争う富豪だろう。二年ほど前に彼の父親が、僕も名前を知っているフットボールのプロチームを買収したと聞いたときには、自分のことでもないのに興奮した。
彼の肌は少しだけ褐色がかっている。髪の色も濃いが、サーシャのしっとりと濡れて光るような黒色とは異なる色合いだ。太くて、ゆるいうねりのある黒いくせっ毛に、濃い眉。目鼻立ちのくっきりした彼の外見は当初、いかにもやんちゃな少年といった雰囲気だった。だが、ここ一年ほどで身長が伸び、体がたくましくなるとともにロドリゴの身体的特徴はエキゾチックな魅力に変わりつつある。一緒に出かけたときに、すれ違った人が振り向いて彼を二度見ることも珍しくはない。
「いいよなあ。アキの言うとおりだよ。ラテン系は外国語科目で苦労が少ない分、成績を割り引いて欲しいくらいだ」
僕とロドリゴの会話に割り込んでくる声。顔を上げるとそこにはヒューゴが立っていた。彼もまた、このカレッジの寮で生活する同級生だ。ヒューゴの場合は留学生というわけではなく、家族と本人の意向で平日のみ寮で暮らし、週末には北部にある自宅に戻ることが多い。
ラテン系留学生のロドリゴや、この国で生まれ育ってはいるけれど東の血が混じっている僕と違って、ヒューゴの外見は典型的な北方系だ。髪は金色で目は碧く、色は白くて背が高い。
僕やロドリゴと親しくしていることからも明らかなように、ヒューゴ自身は差別的な人間ではない。けれど、彼の一族が不文律として保ってきた純潔性は、家柄や裕福さと併せてヒューゴの中に特権意識を産み付けたようだ。
気のいい友人ではあるものの、ときたま彼の言葉には他人を揶揄したり見下したりする響きが混ざることがあり、僕は少しだけ嫌な気分になる。
たとえば、今とか。
「確かにスペイン語は話せるし、他のラテン系言語の習得はちょっとは楽だと思うよ。でも忘れるなよ、このカレッジで学ぶ前提として俺は英語をマスターする必要があった。正直どこに行っても標準語扱いされる言葉を母語にしている君たちのことがうらやましいよ」
さして嫌な顔をしているわけでもないが、ロドリゴはきっちりヒューゴの言葉には反論した。
「まあ、そりゃそうだな。……ともかく試験は終わったし、しばらく勉強のことを考えるのはやめておくか。ふたりとも、休暇の予定は?」
あっさり納得したことからも、ヒューゴには本当に悪意はなかったようだ。僕たちの頭の中も、目の前に広がる休暇の日々でいっぱいになる。
「俺はしばらく寮に残るけど、後半は帰省するよ。アキは?」
「予定は特にないよ。ひたすらおじいさんの手伝いだ」
そう言って僕が肩をすくめてみせると、ふたりは心底気の毒そうな視線を僕に向けた。
「アキヒコのおじいさんは気が早いな。中世じゃあるまいし、この年から仕事を教えるなんて」
この学校に入学したくらいの時期から、おじいさんは少しずつ家のことや仕事のことを僕に教えはじめた。最初はどのような土地や建物を持っているかを見せてくれる程度。それからたまに仕事相手に会うとき僕を同席させるようになった。最近では簡単な書類整理を手伝ったり、帳面の味方を教えてもらうこともある。
いつかは必要になることだから、という気持ち以上に、実際に存在して動いている資産や仕事の話は、僕にとっては学校の勉強よりも興味深い。もちろんそれ以上に、手伝いをする代わりにおじいさんが毎月与えてくれる小遣いも魅力的だった。