Shall we have breakfast together? -2-

 未生には、篠田とその恋人のけんかの原因がさっぱり理解できなかった。

 まずもって未生には、朝食に味噌汁を食べる習慣はない。もしかしたら物心つく前には当たり前の食卓を囲んだ時代もあったのかもしれないが、少なくとも離婚後の母親が未生に朝食を作ることなど皆無だった。

 ほとんどネグレクト状態で育ち、母の死後笠井家に引き取られてからは、新しい「家族」への反発から自宅での食事を拒むようになった。

 誰もいない時間にキッチンにある既製品を勝手に食べたり、簡単な食事を自分で作ることもあったが、そのときの選択肢もパンとインスタントスープとか、ミルクをかけたシリアルにせいぜい目玉焼き程度。もしかしたらガスコンロには継母の真希絵が作った味噌汁の入った鍋がかかっていたこともあったかもしれないが、自身には関係ないものなのだと思っていた。

 つまりのところ、朝から白米と味噌汁とか、焼き魚とか納豆とか、そういったメニューは牛丼やの朝定食やテレビで観る旅館の朝食の中だけに存在する架空のものだという認識でいたのだ。

 味噌汁の具と言われても、今目の前にある「わかめと豆腐」や、回る寿司屋にある「赤だし」くらいしか馴染みがない。いや、豚汁も味噌味の汁ものではあるので、あれも広義には味噌汁なのか?

 いずれにせよ味噌汁に素麺も、味噌汁にじゃがいもも、未生にとっては馴染みはなく、正直そんな「どっちもどっち」なことで諍いが起きたと言われても戸惑うばかりだ。それどころか、普通の育ちの人間にとって味噌汁がそんなにも重要な、アイデンティティの一部となり得るものなのかと驚く。

「ええっと……」

 気の良い友人は、未生の複雑な生い立ちを知らない。未生も当然ここでいきなり「親に味噌汁を作ってもらったことはない」などと言い出すつもりもない。

 一体どのような反応をするのが正解なのか――篠田と彼女、どちらに分があるのかさっぱりわからない。かといって正直な気持ち「くだらねえ」をそのまま口に出すのも、さすがにはばかられた。

「食生活の違いって、あるあるよねえ。生活や文化のすりあわせの最たるものだわ」

 助け船を出したのは栗原範子だ。というか単にしゃべりたかっただけなのだろうが。未生は内心、この理解しがたい話題について範子が高い共感を示したことに再び衝撃を受ける。

「篠田くんは批判したつもりはなかったんだろうけど、彼女からするとせっかく作ったものに文句言われたって悲しくなっちゃったのよ」

「文句じゃないけど……でも素麺だよ? しかも前日の」

「煮込んじゃえば前日のだって同じよ。汁に味噌が入ってるだけで、にゅうめんと変わらないじゃない。わたしはありだな、素麺入りの味噌汁」

 範子が素麺入り味噌汁を擁護すると、篠田は納得いかないといった様子で語気を強める。

「だったら百歩譲って素麺入りの味噌汁はありだとして、でも素麺って麺だし、主食だろ。それを味噌汁に入れるのはありで、じゃがいもは重いとかおかしいってダブスタじゃないか?」

「それはそうだけど、なんとなく彼女の言いたいことわかる気はするんだよなあ。素麺入り味噌汁だとワンディッシュで朝ご飯として成立するけど、じゃがいものお味噌汁だとごはんつけたくなりそう。でもそれじゃ朝から糖質過多だし」

「だったら、里芋は?」

 とうとう戦線は拡大し、何の関係もない里芋を巻き込むに至った。

「確かに里芋だったら違和感ないかも。……う~ん、こういうのって感覚的なものだからな。不思議」

 未生は会話に入れず、篠田と範子のやり取りにただ耳を傾けていた。人は味噌汁の具についてだけで、こんなにも熱く語れるものなのか。すでに冷めて水分と味噌が分離しはじめている手元の味噌汁に思わず視線を落とし、じっと見つめてしまう。

 しばし熱い討論を戦わせていた友人たちだが、ふっと範子が笑う。

「そういう違和感って、結局これまでの育ちっていうか、生活なのよね。で、一緒に家で食事するとか――さらに言えば一緒に住むとか結婚するって、ひたすらそういう違和感をすりあわせていく作業っていうか。うちの姉だってさ」

 昨年結婚した範子の姉は、「洗濯物の小物干しや洗濯ばさみを、都度室内に片付けるか、それともベランダに出しっぱなしにするか」で配偶者と大げんかしたらしい。外気や埃にさらされたものを都度家に入れたくないと主張する夫と、出しっぱなしにしておくと紫外線で劣化すると主張する妻。争いは熾烈なものだったという。

 洗濯物――どうだっけ? 思い浮かべてみるが、家事へのこだわりが一切ない未生には、自分や尚人が物干しをどう扱っていたかすら思い出すことができなかった。

「すり合わせ、ねえ。まあそれはそうかもな」

 未生とは対照的に、篠田は範子の言葉に納得したらしい。さっきまで「俺の味方をしてくれ」全開だった口調が明らかに変わった。それを見逃さず、範子がたずねる。

「で、素麺のお味噌汁は結局食べたの?」

「いや、なんか意地張っちゃってさ」

 食べもせず文句を言ったのなら、それは多分篠田が悪い。少なくとも彼女はリクエストされた時点では篠田に合わせようとしてじゃがいもの味噌汁を素直に作り、その場では文句を言わず食べたのだから。

「意外と悪くないかもよ。彼女だってじゃがいものお味噌汁作ってくれたんでしょう? 今日のは売り言葉に買い言葉だっただけかもしれない」

「そうだなあ。俺もちょっと言い方悪かったのかも」

 未生は置き去りにされたままトントン拍子に話は収束に向かい、すっかり表情の柔らかくなった篠田はようやく手元の味噌汁に箸をつけた。

「豆腐とわかめも悪くはないんだけど、うちはもっと具だくさんでさ。こういうんじゃ物足りないんだよなあ」

「で、じゃがいも? でも最近はやりの具だくさん味噌汁だと思うと夕ご飯にはいいかも、ちょっと芋煮っぽいし。わたしも今度やってみようかな」

「栗原の家の定番って、何?」

「何だろう。わたしはお茄子の味噌汁とか好きだったなあ。変わったとこだとトマトとか」

「えっトマト? それは俺、ねえわ」

 今度は互いの家の味噌汁談義をはじめた篠田と範子。やがて未生が一切会話に入ってきていないことに気づいたのか、そろってこちらに視線を向ける。

「あ、そういえば笠井は?」

「え?」

「笠井はないの? 彼女の作った味噌汁の具でカルチャーショックとか」

 ふたりとも、未生は「八歳年上の彼女と付き合っている」と思っている。半分正解で半分間違っているが、わざわざそれを正すつもりはない。

「味噌汁、ねえ」

 苦学生の未生に配慮してか、尚人の部屋に行ったときはだいたい食事は家で作る。だが未生には特段好き嫌いはないし、「家庭料理」の経験値が低すぎる故に何を食べても「こんなもんなのか」と受け入れてしまう。

 どちらにとっても初挑戦の料理をレシピサイトや動画を参考に作ることもあるが、ふたりでわいわいと作業すること自体が目的なので成功しても失敗しても楽しい。料理が原因でけんかしたことはおそらく一度もないはずだ。

「俺、あんまり飯にはこだわりないし。そもそも朝はパン食だから……そういえば家で味噌汁って食わないかも」

 そうだ、そもそも尚人と家で味噌汁を作ることはあっただろうか。

 朝はふたりとも手軽にトーストと何か。夕食も、鍋とか麺とか、ごはんプラスメインとか、なんだかんだと「男の料理」っぽいものが多く、ちまちまと副菜や味噌汁を並べるようなことは少ない。

「そっか。俺は白米と味噌汁で育ったから、どうしても朝はそうじゃなきゃ落ち着かないんだよな。そういうのもめんどい男なのかなあ」

 篠田はもう一度、今日何度目かわからないため息をついた。