Shall we have breakfast together? -4-

 学業と勤労に日々追いまくられる苦学生にとって、目覚ましが鳴らない朝の遅寝ほど気持ちの良いものはない。

 傍らには心地良い自分以外のぬくもりがあるとくれば、このまま永遠に眠り続けても構わないと思いたくなるくらい――なのだが、うなじをくすぐる柔らかな感触に未生はゆっくりと覚醒する。

 まさかこれは夢ではあるまいか。実は今日はウィークデイの朝で、うっかり一限の授業を忘れて眠りこけているなどという悲劇は……と思いつつ枕元に置いたスマートフォンを引き寄せると、今日は紛れもなく日曜。そしてここは、尚人の部屋だ。

 横向きに寝ている未生の背中にはぴったりと寄り添う尚人の体温。うなじのくすぐったさは、彼の髪が触れているからなのだろう。未生は一度開いた目を再び閉じて、至福の時間をじっくり味わうことにした。

 こういった怠惰で甘ったるい時間が幸せであるということも、尚人と過ごすようになるまでは知らなかったことのひとつだ。

 セックス自体は好きだったが、出すものを出せば頭は醒めて、隣にいる人間のことが煩わしくなる。ピロートークや事後のいちゃいちゃはもちろん、朝まで一緒に眠るなんて酔狂だと思っていたくらいだ。

 変わった、と言われると照れくさくて否定したくなる。でも実際自分は変わったのだろう。そして、尚人も変わった。優しさや細やかさといった美徳は残したままで、出会った頃と比べるとずいぶんのびのびと振る舞うようになった。

 もちろん、ふたりの関係も例外ではない。

 惹かれ合う本心を隠して短い逢瀬を重ねていた頃は、いつだって罪悪感と背徳感を感じつつ、時間に追われながら抱き合っていた。再会して、ようやく恋人と呼べる関係になってからもしばらくは、それまでの飢えと渇きを癒やすかのように、会うたび未生は激しく尚人を求めていた気がする。

 会えるのは週末だけであるとはいえ「次の約束はないかもしれない」という不安を抱く必要はないはずなのに、未生は不安だった。これは本当に現実なのか。じゃあね、と言って別れて、本当にまた次の週末には尚人のマンションを訪れることが許されるのか。「当たり前」を当然のこととして受け止めるようになるまでは、しばらく時間が必要だった。

 一方の尚人も、しばらくは「恋人としての未生」への接し方に戸惑っていたのだろう。

 未生以前にはひとりの恋人しか知らない尚人は、その男に毒されすぎていた。思い浮かべるだけでも不愉快だが――あの上品ぶった嫌な男はセックスのときすら気取っていたようだ。つまりその影響で、ベッドの中ですら遠慮し、気を遣うことが尚人の身にも染みついていたのだ。

 浮気相手としての未生は、そんな尚人を意地悪く責め立て乱れさせ、彼の知らない淫らな一面を暴くことを楽しんだ。他人の恋人を征服しているという歪んだ喜びは当時の未生には必要なものだったが――恋人に向き合うに当たってそれは、もはや不要な感情だ。

 一度のキス、一度の愛撫、一度のセックスを重ねるごとにふたりの間にある違和感や緊張はほぐれた。いつからか急かされるように抱き合うことはなくなったし、尚人も彼なりの積極性をみせながら、リラックスして夜を楽しむようになってきた。

 昨晩だって――ゆったりと、満たされた時間のことを未生は思い起こす。欲望に突き動かされて何度も頂点を目指す行為もいいが、中に入ったまますぐには達さないようじっくり互いの体温を楽しむ試みには別種の満足感があった。

「ん……」

 前の晩の甘い余韻を反芻していたから、鼻にかかった喘ぎのような吐息に耳をくすぐられた未生は、それを幻聴だと思った。

 目を開ける。

 いや、夢ではない。

 さっきまで髪の毛がくすぐっていたうなじに、今度は尚人の鼻先がこすりつけられている。犬猫が甘えるような仕草。外気にさらされている鼻先は冷たくて、ぞくりと産毛が立つと同時に、なぜだかそれはまだ眠っていた未生の性感すらくすぐる。

 ずいぶんリラックスした関係になったとはいえ、普段の尚人は恥ずかしがりで、こんな露骨な振る舞いはしない。一体どんな風の吹き回しだろうか。

「おい、な……」

 声をかけようとして思いとどまるのは、尚人が寝ぼけている可能性に思い当たったからだ。だとすれば、半覚醒状態で甘えてくる恋人を堪能するというレアなシチュエーションを自ら潰すような間抜けなことはしたくない。

 シャツ越しに背中にぴったりと触れる尚人の体はゆっくりとした呼吸に合わせて揺れる。やはりまだ、眠っているのだ。確信した未生は背中に意識を集中した。

「……んぅ」

 再び、寝息ともため息ともつかない小さな喘ぎ。無意識に発せられたものだと思うと、やたらと艶めかしく感じた。

 やばいな、と思う。寝ぼけて無邪気に甘えてくる恋人に、朝っぱらから欲情するなんて。だがさっきまでの安らかな気持ちも、「成熟した関係」の自負も、刺激的な状況の前にはあまりにも儚く崩れ去っていく。朝の生理現象ですでにいくらか勃ち上がっていた股間のものがぴくりと震えるのを未生は自覚した。

 甘えてくる尚人をぞんぶんに堪能したい。が、この状況が続けば昂ぶりを自然に治めることは難しくなる。未生は悩ましい気持ちのまま、居心地悪く体をもぞもぞと動かした。もったいない気もするが、尚人がこのあたりで自然に目を覚ましてくれるのが一番平和な解決策なのかもしれない。

 だが、未生の思惑を知らない尚人はあいかわらず安らかな寝息を立てたまま――さらに予想外の行動をみせた。

「……!」

 太ももにこすりつけられる硬い感触に、未生は息をのむ。

 未生の背に寄り添うようにぴったり体を寄せ、首筋に顔を埋めていた尚人は、腰をぐいと未生の太ももに擦りつけてきたのだ。そこは紛れもなく熱と硬さをもっている。

「な、尚人……?」

 さすがに名前を呼ぶが、尚人から返事はない。

 理性では、自分の股間のこれも、太ももにこすりつけられる尚人のものも、決して性欲に突き動かされているわけではないのだと理解している。健康な男だから朝になるとこうなるのは当然のこと。排尿すればすぐにおさまる、ただの生理現象。わかっているのに――。

「……あ……っ」

 さらに悩ましい声が未生の耳孔を刺激し、尚人が改めて強く腰を押しつけてきた。そのままさらに、自らペニスを刺激しようとしているかのように腰を上下に揺らす。

 未生の頭は真っ白になった。

 恥じらう尚人が困った顔をするのが楽しくて、セックスの最中に淫らな言葉や動きを促すことはある。拒まれることもあれば、高揚のままに応じてもらえることもある。

 だが、こんなふうに自然発生的というのか、尚人本人も意識していない状態で淫らな一面を見せつけられるのは初めてだ。

 昨晩も抱き合って、満たされて眠り、今もこうして互いに体をくっつけて。眠る尚人は夢のなかに何を――誰を見て体を熱くしているのだろう。

 胸が高鳴ると同時に、奥深い場所には微かな不安とうずくような嫉妬。夢の中で尚人を昂ぶらせているのが、もしも他の――。

「……未生くん……」

 熱っぽく甘いささやきに、未生の嫌な想像はかたちを持つ前に吹き飛んだ。