さっきから問題集とノートの間で視線をさまよわせながら、シャープペンシルをくるくると回していた少女が顔を上げる。
問題が難しすぎたかな? 彼女が気負うことなく質問できるよう、努めて親しみやすい笑顔を浮かべる相良尚人に、投げかけられた質問は想定外のものだった。
「ねえ相良先生、コメダ行ったことある?」
「……え? コメダ?」
一瞬目を丸くして、尚人は横目で問題集の文章のどこに「コメダ」という単語が出てくるのかを探った。しかしそのような文字列はどこにもない。ということはつまり、彼女が落ち着かない視線で手遊びをしていた理由は、問題が難しかったからではなく、ただ単に集中を欠いて別のことを考えていたから――。
続く言葉は尚人の悪い予想を裏付けるものだった。
「そう、コメダ珈琲店。ちょっと前に東口の方にできたんだよね。これまで歩いていける場所になかったから、やっと近くにできて、やったー! と思って」
そこでようやく、彼女が話しているのが全国チェーンの喫茶店であることを認識した。
コメダ珈琲店。確かに聞いたことがある。打ち合わせに向かう途中、車窓から看板を見て冨樫が「最近うちの妻がモーニングにはまっててさ」と言ったのがコメダ珈琲店だった。郊外型の戦略をとっているのか大きな道路沿いに出店していることが多く、最近ではたまに駅近くにも見かける気がするが、ドトールやスターバックスのようないわゆるカフェチェーンよりはやや店構えも大きい。喫茶とファミレスの中間のような独特の雰囲気を持つ店に、尚人は未だ足を踏み入れたことはない。
「僕はないけど、会社の上司はよく家族で行くって言ってたよ」
家庭教師の授業時間は限られている。金銭の対価として勉強を支援する契約をしている以上、本来ならば無理矢理にでも話題を問題集に戻すべきなのだろう。だが尚人が担当している生徒の多くは通学や、学習意欲に問題を抱えている。つまり、勉強を押し付けるだけではなく、雑談や悩みの相談を通じて信頼関係を築くことが、彼らを学習に導くための大切な下準備となるのだ。
もちろん目の前の少女も例外ではない。だから尚人は、さも興味深そうな表情で、持てる知識を総動員して「コメダ珈琲店」の話題に乗ろうとした。
なんだっけ、あのとき冨樫はどんな話をしていたっけ。確かモーニングのメニューが少し変わっていて……。
「ああ、そうだ。モーニングの付け合わせに、あんこが選べるんだっけ?」
なんとか絞り出した「コメダ豆知識」に少女の顔が輝いた。思春期の女の子は難しい。授業中にも急にやる気をなくしたり、機嫌を損ねたりして黙ってしまうことも珍しくはないが、どうやら尚人の今の返事は「正解」だったようだ。
「そうそう、最近はあんバターサンド流行ってるけど、名古屋じゃ昔からトーストにあんこ乗せるの普通なんだって。あとさ、コーヒー頼んだらちっちゃい豆菓子がついてくるの。ウケるよね」
少女は饒舌に話す。
中学生活のほとんどを不登校で過ごし、高校進学と同時に心機一転学校に通うことを決意。対人関係に不安を持っていたが、一緒におやつを食べに寄り道するような友人ができた。そのうちの一人が子どもの頃に名古屋に住んでいたから、コメダで大いに盛り上がったというのだ。事情を聞けば、実に微笑ましい。
「でも、私たちが行ったのは学校帰りだったから、モーニングじゃなくてスイーツ。私はシロノワールで、ひとりはかき氷頼もうとしたら、名古屋出身の子が『大丈夫? 食べれる?』って言うの。意味わかんなかったんだけど、運ばれてきたのがこれ。見てよ先生」
彼女の手はシャープペンシルを放り出し、授業中には触れないと約束していたはずのスマートフォンを取り出してしまう。困惑しながらも尚人は差し出された写真に視線を向けた。
円形の何か――どうやらパンケーキ型のデニッシュパンであるらしい――の上にソフトクリームがとぐろを巻く、これが「シロノワール」。続いて画面に映し出されるのはソフトクリームとあんこがトッピングされた深緑色の小山のようなかき氷。尚人は勝手に、女子高生はイチゴやマンゴーのトッピングされた華やかなかき氷を好むものだと思い込んでたが、宇治金時とは意外と渋い。
だが、少女が言いたいのはそういうことではない。
「すごくない?」
「え……何が?」
写真を見た瞬間尚人が「すごさ」に驚くことを期待していた彼女は、間抜けな反応に明らかに落胆している。
「先生ほら、隣のグラス見てよ。グラスがこんなに小さく見えるでしょ」
つまり、シロノワールもかき氷も、サイズが尋常でなく大きい。それを知って欲しくて写真を見せつけてきたのだ。
とはいえ写真は写真だ。言われてみればグラスは小さいように思えるが、そもそも飲食店でお冷のグラスなど千差万別だ。このグラスが小さめである可能性もある。提供された商品は、大きいと言われればそんな気もするけど、正直よくわからない。
「へえ、すごいね。で、結局全部食べきれたの?」
曖昧な返事でごまかそうとすると、彼女は急に真顔になって「いや、無理」と言った。まるでそのときの満腹感を思い出しているかのように苦しそうに、続いて大量のソフトクリームを食べたときの寒さを思い出したのか大きく身震いまでして見せる。
「だってさ、ガチで、むっちゃ多いの。しかもソフトクリームって甘いし、デニッシュも甘くてこってりしてるでしょ。甘いの好きだしこれくらい余裕って思ってたけど無理だった」
「かき氷のお友達は? そっちの方があっさりしてそうだけど」
確かに、巨大なデニッシュに、どんどん溶けて甘さの増すソフトクリームは想像するだけで胃もたれしそうだ。だが、かき氷ならどうだろう。しょせん、ほとんどは水でできている。
しかし返事はさらに絶望的なものだった。
「もっと無理だよ。バケツみたいなんだよ、あのかき氷。全部食べたら凍死するね」
「と、凍死……さすがにおおげさなんじゃないかな」
若者特有の誇張した物言いだと理解しながらも、尚人が笑ってツッコミを入れると少女はますます真剣な顔をして、身を乗り出す。
「相良先生、私を疑ってるの? 生徒の言うこと信用してないんだ、ひどい。本当に凍死するほどやばいんだってば」
「え?」
尚人はうろたえた。まさか、たかがカフェメニューの大きさくらいで教師と生徒の信頼問題云々に発展しようとは。あまりにもくだらない。だが、一方で、繊細な思春期の少年少女は大人からすればどうでもいいようなことで傷ついたり、心を閉じたりすることもある。
「いや、冗談だよ。ごめん言い過ぎた。疑ってなんかいないって」
慌てて弁明を図る尚人に、少女は睨みをきかせたまま言った。
「だったら先生、コメダ行ってみて。シロノワールとかき氷のノーマルサイズ頼んで感想聞かせてよ。そしたら私の言ってることが本当だってわかるから」
ちゃんと「言い過ぎた」と謝罪している。それでも繊細な思春期の少女にとって尚人の反応は許しがたいものだったのだろうか。それ以前に、ただでさえ学習計画に大幅な遅れが出ているのに、コメダの話で時間を浪費していたらどんどん予定は狂うばかり。かき氷を食べたわけでもないのに頭が痛くなってくる。
とりあえずこの場を納めて、彼女の気持ちを授業に戻すには、方法はひとつしかない。尚人は苦笑いを浮かべてうなずいた。
「わかった、行ってみる。でも僕はそんなに甘いもの得意じゃないし……両方は無理かな」
十代とは幼いようで抜け目ない。尚人の逃げの姿勢を許さないとばかりに、投げかけられた言葉は辛辣だった。
「だったら、彼女とシェアすればいいじゃん」