Summer Dressing(14.おまけ)

 そんなこんなで和太鼓の練習を口実に、ジェレミーは週二度ほど堂々と栄と会うことができている。

 和太鼓パフォーマンスに参加するのは民間企業と公的機関あわせて十人ちょっと。これだけの人数がいて、しかも平日夜の限られた時間で素人の演奏を一応の形にしようとするとなると、必然的に練習の密度は濃いものとなる。栄と二人きりになることはもちろん話をする機会すら限られるのだが、ジェレミーは虎視眈々と付け入る隙を狙い続けた。結果、練習後であれば短い時間ながら、比較的高い確率で栄を捕まえることができることに気づいた。

 たかが棒切れで太鼓を叩くだけではあるのだが、和太鼓演奏は存外に体を使う。よって参加者の多くは練習前に上下動きやすい服装に着替えており、そのままの姿で帰ってゆく者も多い。

 しかし栄は練習後には毎回きっちりとスーツ姿に着替える。しかも周囲の面々が帰って、人が少なくなるのを待ってから。

 その手の羞恥心は遥か昔に乗り越えたジェレミーだが、同性愛者のお仲間として、栄が男性集団の中で着替えることに幾分の抵抗を持つことは理解ができる。

 そして――これはあくまで勘繰りであるのだが、かつてジェレミーが栄との距離を縮めるきっかけとなったのは、彼の首筋に残っていたキスマークだった。栄が嫌がることをわかっていて、時に強引に親密な存在の証を残していくパートナー。あの男が気まぐれに同じことをしたならば、という警戒感を持つことは不思議でも何でもない。

 いつも、生真面目に片付けの手伝いや譜面の確認をしているふりで、不自然に思われない程度に時間をつぶしている栄。人目を避けて着替えるタイミングを待っているのだ。もちろん集合時間にも誰より早くやって来て、いつの間にか着替えを終えている。

「栄さん」

 ジェレミーは、そっと声をかけると警戒心あらわに振り向く栄に言う。今日はひとつ、あたらしい作戦を準備していた。

「実は隣の小会議室も空いていることを確認しています。着替えに使ってもらってかまいませんよ」

「え?」

 見透かされていた気まずさからか、一瞬言葉に詰まったものの、本心では彼もさっさと帰路につきたいのだ。小さくうなずいて「ありがとう」と礼を言った。

 だが、当然ながらジェレミーは善意だけでそんなことをしない。さすがに着替えの最中に乱入して本気の怒りを買うようなリスクは冒さないが、をちょっとからかうくらいは許されるはずだ。

 栄がスーツ姿に戻ったタイミングを見計らってノックする。

「失礼します」

 返事を待たずにドアを開けると、栄は汗ばんだ肌をウェットシートで拭い、太鼓の練習の痕跡を消そうとしているところだった。身だしなみに気を遣う彼らしい。

「何?」

「使い終わったら部屋を施錠する必要があるので」

「……ごめん、もう空けるよ」

 部屋でふたりきりになることに警戒心をあらわにした栄だが「施錠」の言葉に気まずそうに謝罪を口にした。自覚はないのだろうが、彼のこういう甘さが、ジェレミーに、まだつけいる隙があるのではないかという淡い期待を抱かせるのだ。

「そういえば栄さん、面白いレポートがあったんですよ」

 罪悪感から警戒をゆるめた栄に、ジェレミーはバッグから薄い紙の束を挟んだクリアファイルを取り出した。

 があってからも、ジェレミーはときおり栄に有用な情報を送るようにしている。ただの面倒な人間だと嫌われるのは、私的な好奇心からも仕事の面からも望ましくはない。大使館の経済アタッシェとの友好的な関係は、ジェレミーにとっても大切にしたいものだった。

「ありがとう」

 浮かぶのは怪訝な表情。なぜ今、このタイミングで? とでも言いたいのだろう。

 手を伸ばして栄が受け取ろうとしたところで、ジェレミーはファイルを引っ込めた。栄のこめかみが微かに震えたのは苛立ち。しかし彼は負の感情を露わにすることをギリギリのところで堪えて、笑顔を浮かべた。

「今日は時間がないから、持ち帰って読ませてもらうよ」

 要するに、もったいぶらずにさっさとよこして帰らせろと言いたいのだ。ジェレミーはおもむろにカラー印刷されたレポートの表紙を栄に見えるように示し、それからそっと囁いた。

「ところで、栄さんとあの人は、どのくらいの頻度でセックスをしているんですか?」

 一瞬の硬直。

 それから飛びすさってジェレミーから距離を置き、栄はキョロキョロと周囲を見回す。この不穏な会話を誰かに聞かれていたらたまらないと思ったのだろう。だが、もちろん心配はご無用。ここは栄のためにわざわざジェレミーが確保した部屋。親切の代償としてちょっとくらいお遊びに付き合って欲しいという、それだけのことだ。

「し、仕事の話かと思えば何を……」

 うろたえた栄に向かってレポートの束をめくりながら、ジェレミーはまるで企画案のプレゼンテーションをしているかのように淡々と言う。

「少し古いデータですけど、このGlobal Sex Surveyによると、調査対象41カ国のうち日本人が一番年間のセックス回数が少ないそうです。だから、栄さんたちはどうなのかなと思って」

 少し前に「面白いものを見つけた」と友人から教えてもらった調査は、とある避妊具の世界的メーカーが行ったものだ。41カ国から選んだ調査対象者相手に、初体験の年齢からセックスの回数、自慰行為やプレイの内容、玩具の使用経験など、普通は表に出しづらい、性にかかわる習慣や嗜好について多方面にわたる質問をしており、その結果は確かに興味深い。

「悪いけど、俺はそういう話題は」

 几帳面な彼らしくない仕草で、脱いだシャツを畳みもせずにバッグに押し込んで栄は立ち上がろうとした。

 一秒でも早く逃げだそうとするその姿がジェレミーには面白くてたまらない。同性愛者のコミュニティは比較的、性的にオープンかつ奔放だ。いい大人のくせにセックスの話題ひとつで口ごもるなんて、ジェレミーの周囲にはいないタイプだ。そのくせ、お堅い自分をどこかで恥じている様子もある。つまり栄は――「落とす、落とさない」を別にしても、実にいじりがいのあるタイプとも言える。

「日本人は年間45回で断トツの最下位です」

 逃げ出そうとした栄が動きを止める。彼は賢い頭の中で瞬時に「365÷45」を計算しているに違いない。約八日に一回。さて、栄とあのパートナーのセックスはそれより多いか少ないか。

「さすがに下回ることはないでしょうね。あの様子からして、少なくとも週に一度は――」

「ジェレミー!」

「ちなみにUKは118回、意外と少ないと思いましたね」

 図星なのだろう、低く鋭い声をあげた栄の怒りをかわそうと、ジェレミーはすかさず話題を変えた。栄の怒りは反射的に「365÷118」の暗算にすり替えられてしまう。

「す、少ない……? っていうかジェレミー、確か君、恋人いないって」

「恋人がいなければセックスしないってわけじゃないでしょう?」

 さらりと返すと、華やかな外見からは意外なほど真面目で奥手な日本人は、目を丸くして完全に言葉を失った。

 あのクールぶった男と、このクソ真面目な栄はベッドでどんな時間を過ごしているのだろう。オーラルセックスに自信がないという栄にアドバイスを求められ、お勧めのディルドやローションをプレゼントしたが、あれはその後活かされたのだろうか。気になることはたくさんある。参加するのは難しいにしても、一度見学するくらいは許されないだろうか。

 そんな欲望を口に出そうとしたところで、小会議室のドアが開いた。

「谷口さん! 探していたんですよ、ここにいたんですね」

 毎度の邪魔者、大使館で働く英国人スタッフのトーマス・カニンガム。彼自身の嗅覚によるものなのか、それともどこかの誰かの差し金なのかわからないが、和太鼓の練習を始めてからも、この男はジェレミーが栄に近づくのを何かと邪魔してくる目障りな存在だ。

「明日の予定で、一点確認したいことがあったんで。お話中でした?」

「いや、ちょっと雑談してただけだから大丈夫。じゃあジェレミー、また!」

 ジェレミーにとっての邪魔者は、栄にとっては救いの手。そそくさと立ち上がって去りゆく背中をこれ以上引き留めることもできず、次回はどんな手を使って栄をからかおうかと考える。

 栄がいなくなっては、もう小部屋にも用はない。照明を消して、廊下に出てからドアを施錠しているところで完全にタイミングを逸した男が近づいてくる。

「谷口さん、まだいる?」

 長尾だった。自衛隊員の体力をおだてられて、太鼓の片付け担当になっている彼も、毎回帰りの遅いメンバーのひとりだ。もちろんその目的が自分と似たようなものであることに、ジェレミーは気づいている。長尾は栄に声をかけて、あわよくば練習帰りに連れだってパブにでも行こうと考えているのだ。

 今のところ、その目論見はうまくいっていない。

「明日のスケジュールの確認とかって、あの英国人の同僚が連れて行きましたよ。一緒に帰ったんじゃないですか」

 ジェレミーがそっけなく事実を告げると、長尾は悔しそうに小さくつぶやく。

「トーマスか。最近どうも邪魔されている気がするんだよな。もしやあいつ、あんな美人の彼女がいながら……」

「考えすぎでしょう」

 邪魔されているのは事実だが、長尾の予想は確実に間違っている。この男も間違いなく「同類」なのに、トーマスから一切その手のオーラが出ていないことに気づかないのだろうか。

 長尾のあまりの鈍さにはあきれるばかりで――だからこそ、暇つぶしにからかうにはちょうどいい。ジェレミーはさっき栄に見せたレポートを、今度は長尾の鼻先でひらひらと振って見せた。

「さっき、栄さんとこのレポートについて話していたんです。夜の頻度、栄さんはどうですかって」

「は!? なんでそんな品のない話を谷口さんに!」

 ……栄も栄なら、こいつもこいつだ。呆れた気持ちを隠そうともせずジェレミーは言い返す。

「男同士で下ネタを話すくらいで大げさな。驚くようなことですか?」

 繊細すぎると揶揄された長尾は気まずそうに声を落とした。

「いや……でも、ほら、彼はシングルだし。そんな話題困るだろう」

「シングルだったら夜の営みがないなんて、それこそ偏見ですよ」

 ついさっき栄に言ったのと同じような台詞。どうしてこの日本人たちは古くさい貞操観念にとらわれているのだろう。一生は短いし、性的にアクティブでいられる時間はもっと短い。だったら好みの相手とはどんどん寝た方が有意義な人生になるのではないか。ジェレミーに、栄や長尾の思考が不思議でたまらない。

 しかも――品性やら貞操やらを気にする割に、内心ではセックスの話に興味津々なのだ。その証拠に、気まずそうにしばらく沈黙してから、長尾はぼそりとつぶやいた。

「で、答えは?」

 長尾だって結局は栄のセックス事情を知りたいのだ。

「あなたは?」

 品性下劣と責められた後で、あっさり答えてやる気にもなれないジェレミーは質問に質問で返した。

「え? 俺?」

「一方的に情報提供するなんてフェアじゃないです。あなたのことを話してくれれば、栄さんの回答を教えます」

 再びの沈黙。自身のプライベートを明かすことへの抵抗と、栄の秘められた性生活への関心。しばしの葛藤の後に長尾もまた、下世話な好奇心に負けた。

「ほら、海外赴任中だから。ここのところはずっとご無沙汰ですよ」

 なんとなく予想していたとはいえ、死ぬほど退屈な回答にジェレミーはため息を吐いた。それを馬鹿にされたと感じたのか、長尾は顔を赤くして約束の履行を迫る。

「で、答えは!? 俺のことを話したら、教えてくれるって言っただろう!」

「……知りませんよ」

「は?」

「そんな下世話な質問に答えるはずがないでしょう、あの栄さんが」

 欺された、という怒りと失望が長尾の顔に浮かぶが、それは間もなく安堵に変わる。あこがれの谷口栄にセックス・パートナーがいる、という現実を突きつけられるよりは「答えない=セックスの相手はいない」という希望的観測が残された方がこの男にはよっぽど幸せなのかもしれない。

 

(終)
2023.10.08 – 2023.10.28