第3話

「どうしたの、ぼーっとして。授業終わったよ」

 顔を上げると、不思議なものを見るような表情を浮かべて栗原くりはら範子のりこが未生を見下ろしていた。

「え?」

 シャープペンシルを取り落として、周囲を見回してようやく大教室の半分ほどがすでに空になっていることに気づいた。手元のノートは途中から完全なる空白、いつから意識が飛んでいたのだろうか。

「珍しいね、笠井くんがぼんやりしてるなんて」

 そうでもないけど。いや、言われてみればそうなのかもしれない。

 以前通っていた大学ではただ出席して座っていれば単位がもらえたし、未生自身も四年間できっちり卒業して「とりあえず大学だけは出ろ」という主張を頑なに曲げない父親から自由になることにしか興味がなかった。名前を書けば入ることのできる大学で、一応は経済学部という名前こそついている学部に所属はしていたものの経済のなんたるかも理解しないままの二年間にモラトリアム以外の意味があったとは今も思ってはいない。

 だが、自分で再受験を決めた大学に猛勉強の末合格した今では事情が違っている。継母である真希絵からの借金に加えて奨学金もあるとはいえ、それらの金は将来的には返済すべきものだ。アルバイト代や将来の自分の稼ぎが原資なのだと思えば、一コマの授業すら無駄にすることは惜しく思えるし、何より未生には優等生を絵に描いたような生き方をしてきた年上の恋人に恥ずかしくない大人になりたいという明確な目標がある。

 もちろん生まれもった頭脳も積み重ねてきた努力も違うのだから、ここから多少の努力をしたところで尚人や――尚人の元恋人である谷口栄のようになれるとは思っていない。だが、せめて自分の足で立ち、自分の人生の責任は取れるようになりたい。

 よって今の未生は基本的には遅刻もしないし居眠りもしない。まともな学習習慣がなく基礎知識に欠ける分ここで人の倍の努力が必要であることを受け入れて、それなりに真面目な苦学生として日々を過ごしているのだ。

「……あー、まずい。全然ノート取れてない」

 がっくりと肩を落とす未生に、範子が助け舟を出す。

「後で写メして送ってあげるよ。その様子じゃ話も聞いてなかったんだろうけど、気になるなら誰かしら録音してるでしょう」

「だな。篠田しのだにも聞いてみよう」

 スライド資料はほぼすべて電子媒体で配布され、中には講義を毎回録音している同級生もいる――そんな話をしたときに「いい時代になったね」と尚人はため息をついていた。もちろん尚人が大学に入ったときもすでにパソコンやインターネットは普及していたはずだが、今ほど活用はされていなかったようだ。尚人が学部生だった時代にはまだまだ「ノートをコピー」が主流だったと聞けば確かに隔世の感はある。

 とりあえず今日の授業については後でどうにかフォローするしかない。気持ちを切り替えて立ち上がった未生に並んで、範子はそのままついてきた。ちょうど昼時なので学食まで一緒に行くつもりなのかもしれない。特に歓迎もしないが拒むほど迷惑というわけでもないので未生は何も言わなかった。昼飯ついでにそのままノートの写真を取らせてもらえれば後で送ってもらう手間も省ける。

 半年ほど前には「年上の恋人に翻弄される仲間」と勝手に認定し、泥酔した挙句にラブホテルにまで連れ込んだりと未生をさんざんな目に遭わせた範子だが、最終的にはあのとき押し付けられたラブホテルの会員カードのおかげで尚人が嫉妬を自覚し、正式に恋人として認めてくれたことを思えば恩人といえなくもない。あの一件で実力行使してもなびかない相手だと見切られたのか、その後の付き合いはあっさりと色気のかけらもないものに変わり、おかげで同じ学部の女子学生の中でも範子は比較的付き合いやすい存在となった。

 ちなみに範子はといえば、年上はもううんざりとばかりに、夏休みの臨時バイトで知り合った年下の専門学校生と付き合いはじめたのだという。音楽専門学校に通うプロ志望のバンドマン――と属性を聞いただけで地雷臭しかしないのだが、本人たちが幸せならばそれで良いのだろう。そもそも八つも年上のしかも同性と付き合っている未生には何も言えた筋合いではない。

「笠井くん、もしかして」

 A定食を手に未生の目の前に着席した範子は、やけに嬉しそうに切り出す。

「例の年上の彼女と何かあった?」

 なぜこんなに楽しそうなのか。やはりまだ、妻子持ちであることを隠していたという元彼への恨みを忘れておらず、その鬱憤を理不尽にも未生の恋路にぶつけようとしているのか。

「そういうんじゃねえよ」

 反射的に否定してみたものの、もちろん 理由なんてそれ以外にあるはずがない。

 ここ数日、尚人の様子がおかしい。ただでさえ鈍い上に未生とは完全に異なる思考回路をしているから苛立つことも多いが、気持ちが態度に出やすいのは尚人の良いところだ。何か隠しごとをしている――しかも未生にとっては歓迎できない類の。それはほとんど確信といってよかった。

 そして気持ちが顔に出やすいといえばおそらく未生本人も同じなのだろう。

「嘘だあ、その不機嫌な顔。あのときと一緒だもん」

 完全に新しいおもちゃを見つけた顔でにじりよってくる範子に、未生はさすがにうっとうしさを隠しきれない。虫を払うような仕草で顔の前で手を振り、これ以上の野次馬的関心を拒否する。

「うるさいな、栗原には関係ないだろ」

「年上に翻弄された先輩としては、放っておけないのよ」

「嘘つけ、面白がってるだけのくせに。くだらねえ男に騙された過去なんかにこだわるより、今は年下彼氏の心配でもしてろよ。賭けたっていいけど、そいつヒモになるつもりだぞ」

 ノートを見せてくれるという言葉につられて、こんな女と飯なんて食うんじゃなかった。尚人への不満までも範子にぶつけている自覚はあるが、そもそも機嫌が悪いのを承知で絡んでくる方が悪い。

「ひっどい言い方。そういう八つ当たりしてくる時点で図星ですって白状してるようなもんじゃない」

「……別に、ちょっと元気なさそうなだけ。真面目なやつだから仕事の悩みでもあるんじゃないの。電話じゃ話しづらいのかもしれないし、週末に会ったときにでも聞いてみるよ」

 負けじと憎まれ口を叩いてくる範子があまりにしつこいので、つい口が滑った。勝ち気な彼女は自分の推測が当たっていることを認めさせたくてしかたないのだ。こうなったらノート代だと思って多少のサービスをした方が話が早く終わるのかもしれない。

 改めて口に出してみると、なんだかとてもくだらない悩みであるような気がしてくる。尚人はいつもと変わらず優しい。最後に会った先週末も特段の変わりはなく――確かに、ストップをかけられたのに無理をいって「もう一回」してしまいはしたが、尚人だってまんざらでもなさそうだった。未生の側に尚人を怒らせる心当たりはないしきっかけもないということは、悩みがあるにしても未生以外が原因のものなのだろう。少なくとも嫌われたとか別れたいとか、そういう話でないのならば緊急度は低い。

 だが範子はわざとらしく深刻な顔をしてささやきかける。

「なに能天気なこと言ってるのよ。悩みを相談してくれないって、信頼されてないってことじゃないの? 年下だから頼りないって思われてる可能性大だよ、それ」

「……おい、けんか売ってるのか」

 悩みを明かしたら明かしたでこの言いようだ。とはいえ軽く聞き流すことができないのはもちろん、まさしく未生が指摘された部分を気にしていたからに他ならない。

「違うって、老婆心よ。だってやっぱり、恋人同士って、不安や悩みは全部打ち明けられるほうが健全だと思うのよね。その点、うちの彼氏は何でもはっきり言ってくれるから」

「ああ、確かに変に遠慮されるよりも、はっきり金の無心してくる方が健全なのかもしれないな」

「何よそれ。うちの彼氏のは金の無心なんかじゃなくて、ただ次のバイト代が入るまでのスタジオ代がちょっと足りないだけで……」

 結局どちらも一歩も引かないまま、午後の講義のため席を立つぎりぎりまで未生と範子の不毛な罵り合いは続いた。

 が、やはり女というのは鋭いものだ。範子に指摘されてみれば、尚人が未生に悩みを相談しないことそれ自体が見過ごすことのできない大きな問題であるような気がしてきた。人生経験も思慮深さも足りない未生だが、恋人として話だけでも聞いてほしいという気持ちにはならないものだろうか。未生が大学や家族の愚痴などなんでも垂れ流すのは尚人を信頼しているからだ。でも同じだけの信頼を尚人が未生に持っていないのだとすれば――。

「尚人、ここのところ口数が少ない気がするけど、なんか悩みでもある? 仕事忙しいとか」

 その晩の電話で、直接的に聞いてみた。しかし尚人は、気まずい沈黙の後で「気のせいじゃない?」と不自然に笑うだけだった。