第4話

 未生は迷った。尚人を問い詰めるべきか、それとも悩みを打ち明けてもらえないのは自らの未熟さが理由であると素直に受け入れ、黙って見守るべきか。言いたいことを我慢するのはまったくもって性に合わないが、幼稚な行動で尚人に呆れられるのも嫌だ。腹立たしい話ではあるが、こういうときにあの男、谷口栄ならばどうするだろうと頭をよぎりすらした。

 もやもやした気持ちのまま一週間は終わり、あっというまに金曜日の午後。少し仮眠をとってから夜通しのバイトを終えれば、シャワーを浴びて都内へ向かう電車に飛び乗るだけ。一番楽しみな時間が近づいているというのに未生の気分は優れない。それどころか――尚人の隠しごとの正体は、思わぬところから明らかになった。

「聞いてよ未生くん! すごい報告があるんだ」

 仮眠から目を覚ましてから出勤までの短い時間に、電話をかけてきた母親違いの弟は声を弾ませていた。しかし未生の寝起きの頭に子どもの高い声は暴力的に響く。

「なんだよ、でかい声出して……」

「だって僕、今日のマラソン大会で三十位になったんだ、すごいと思わない?」

 未生の気のない返事にも関わらず、優馬ゆうまははしゃいだままだ。

「三十位って、学年全部で何人いるんだ?」

「男子は百人くらい。でも、去年までいつも後ろから数えた方が早かったんだから、大躍進だろ?」

「……野山で走り回ってる田舎のガキに混ざってそれなら、確かに悪くないな」

 そう答えつつ、我ながら評価が甘いと苦笑する。

 未生は十三歳のときに実母が病死したことをきっかけに、再婚し政治活動のため東京に生活拠点を移していた父に引き取られた。優馬はそのときまだ二歳だった。未生にとって優馬はある日突然現れた母親違いの弟だが、優馬にとっての未生は物心ついた頃から同じ家で暮らす兄である。父とはけんかを繰り返し、継母の真希絵まきえにも長年冷淡でいた未生だが、屈託なしに懐いてくる優馬にだけは厳しくすることができない。

 小学校五年生への進級を機に、未生を除く家族三人――父と真希絵と優馬は、父の地元であるN県に転居した。昨年の総選挙で落選し再起を図る父は、一時的に本業である会社経営に復帰しつつ選挙区の支持を取り戻すため地道な活動を行なっているらしい。

 父が未生の母に対して行なった非道な仕打ちが全国的に知られるところになったにも関わらず、真希絵は離婚を選ばなかった。もちろん優馬のためというのが第一なのだろうが、それ以外にも彼女はまだ夫の中に一緒に暮らしていくだけの意味を見出しているのだろうか。未生には決して理解できないが、夫婦には夫婦にしかわからないことがあるのだろう。

 未生は決して父と和解したいともしようとも考えないが、かといって真希絵や優馬が父と家族関係を維持することを憎いとも思わない。こんなふうに割り切れるようになったのもきっと、愚かな失敗をしたからだし、尚人と出会えたからでもある。

 どうしたって選ぶことのできない親や、救うことのできない幼い自分にこだわるより先を見ていたい。望むだけの愛情や保護を親から得られなかった過去は変えられないが、今の未生は自ら選んだ相手を愛することができるし、その相手からの愛情を求めることも――多分できるはずだ。これからの人生を作るのは自分自身なのだと言い聞かせて、ただ前を向く。

 そんなこんなで、別居するようになって以降未生と父はほぼ没交渉であるが、真希絵や優馬とはときおり連絡を取り合っている。真希絵を母と思うことは永劫ないだろうが、さすがに十年近くも一緒に暮らした今では赤の他人とも思えない。例えば叔母とか歳の離れた姉とか、そういった存在に近いのだろうか。

 そして優馬はといえば、果たして田舎に順応できるのかという心配をよそに地方都市でのびのびやっている。幸い転校先での人間関係に恵まれ、東京では不登校がちだったのが嘘のように楽しそうに学校に通っている様子はたまの電話だけで十分伝わってきた。

 父はまだ都内名門中学のお受験に未練を残しているようだが、優馬本人は今のところは新しい友人たちと地元の公立中学に進学することを望んでいると聞く。スキャンダルと選挙落選を通じて夫婦間の力関係には変化があり、今では父が独断で優馬の進路をゴリ押しすることも難しいだろう。

 そういえば優馬はN県に引っ越してから友人の影響で体育クラブに入ったと聞いた。頭と性格は抜群に良いが体力と運動神経に恵まれているとは言い難い優馬だが、クラブ活動の成果が早くも出ているのかもしれない。少なくとも踏み切りに失敗して跳び箱に激突して怪我をした頃と比べれば大きな進歩だ。

「俺は五位以下はとったことないけど、優馬にしては上出来だな」

 優馬とは逆に体育以外取り柄のない小学生だった未生にとって運動会とマラソン大会は数少ない活躍の機会だった。とはいえそれも、家庭事情のせいで不登校になるまでの話だが。素直ではない褒め言葉だが、兄の性格を知っている優馬は嬉しそうに電話の向こうで笑った。

 マラソンの順位が上がったくらいでこんなにも嬉しそうに電話をかけてくるだなんて、母親違いとはいえ血を分けた弟とは思えない性格の良さには感動すら覚える。時計にちらりと目をやって未生は、優馬と話せる時間を頭の中で計算する。だが、次に弟が口にした言葉のせいでそんな計算すら一瞬で消え去ってしまった。

「そういえば昨日、久しぶりに相良先生と話したよ」

「は? なお……相良先生とおまえが何で?」

 未生は思わず強い調子で聞き返す。よりによってここ数日未生の頭を悩ませていた恋人の名が優馬の口から飛び出すとは。

 尚人は優馬の元家庭教師で、しかも優馬を不登校から救った大の恩人なのだから、ふたりが連絡をとっていること自体は不思議ではない。優馬はときどき学校や生活の様子をメールで書き送り、尚人がそれに返事をするささやかな文通を続けていることも知っていた。だが、電話で話すほどの距離感だというのは驚きだし、何より昨晩の電話でも尚人は一切優馬の話などしてはいなかった。怪しい。状況が状況だけに、そう思ってしまうのも仕方ないことだろう。

「ママに電話があったから、代わってもらったんだ」

「ママって、真希絵さんに?」

 真希絵に電話などと言われれば、なおさら聞き捨てならない。今では家庭教師でもなんでもない尚人が、なぜ優馬の母親である真希絵に連絡を取る必要があるのか。

「……何の用事だ? 相良先生がどうして今になって、おまえのママに電話かけるんだよ」

 思わず未生の声が低くなり、賢い優馬は自分がうっかり口を滑らせてしまったことに気づいたようだ。はっと息を飲んであからさまに戸惑う。

「えっと……思わず話しちゃったけど、そういえば電話のこと内緒だって」

 内緒というのは、電話のことを未生に話すなと口止めされたというのか。カッと頭に血が上る。もしかしたら自分は大きな勘違いをしていたのかもしれない。この一週間弱、尚人の様子がおかしいのはきっと自分には関係のないことが原因なのだろうと勝手に遠慮していたが――そこに真希絵や優馬が絡めば話は別だ。なぜ笠井家の他の人間に話すことを、よりによって恋人である未生にだけ隠す必要がある。

「おい、優馬」

 さっきとは異なり、未生は今度はしっかりと意図的に、幼い弟に向けて凄んでみせた。

「内緒っていうけど、おまえ半分とはいえ血の繋がった大事な兄貴と、赤の他人で、もはや担当家庭教師ですらない相良先生のどっちをとる?」

「どっちを取るって……未生くん、男の約束は大事だって言ってたじゃないか」

 さすがに五年生にもなると、分別もついてきて脅し一発では言うことをきかない。しかたがないので未生は卑劣な方法に出ることにした。

「そうか。言わなきゃお年玉もやらないし、年明けに泊まりにきたいっていってたのもなしだからな」

 真希絵が父を説得し、許可を得た優馬がはじめて一人で新幹線に乗ってやってきたのは夏だった。東京駅ではなく大宮駅まで迎えに行って、前々から優馬が一度行ってみたいと言っていた鉄道博物館に付き添ってやり、その日は未生の千葉のアパートに連れ帰って一晩泊まらせた。

 狭い学生用アパートは一軒家の生活しか知らない優馬にとってはむしろ興味深く映ったようで、帰り際にはまた絶対に遊びに来るのだと決意表明していた。そして二学期の成績さえよければ再び未生のもとを訪れ、今度は二泊して良いと許しをもらったところだったのだ。

「え? ま、待って未生くん」

 何より楽しみにしている冬休みの予定を人質に取られて、優馬は明らかに動揺した。

「五秒だけ待つ。五、四、三……」

 そして、実の兄の卑劣な脅迫の前に、優馬と尚人の「男の約束」は脆い。未生のカウントダウンが終了する一瞬前に優馬は口を割った。

「相良先生、ママに教えて欲しいことがあるって。前にパパの秘書だった羽多野はたのさんの住所と電話番号を知りたいんだって。それだけだよ!」

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