第5話

 優馬から聞き出した内容は、未生にとってあまりに予想外のものだった。

「……羽多野? って、あの、政策秘書の羽多野貴明?」

「だと思う。よく家にも来てたお兄さん」

 父の秘書の中では若く、気さくに話しかけてくる羽多野には優馬も懐いていたような気がする。だが未生は羽多野のことを悪人とは思わないものの、一筋縄ではいかないどことなく気味の悪い人物だと感じていた。

「お兄さんじゃなくておっさんだろ」

 そう反射的に言い返して改めて時計に目をやると、出勤までにはもうほとんど時間的な余裕はない。あわてて電話を切る旨を告げると、優馬は尚人との約束を破ったことがよほど気がかりなのか、再度未生に念を押した。

「僕が喋ったって、絶対内緒だよ!」

「わかったよ」

 よくよく考えれば「相良先生」と未生が恋人同士であることはおろか、今も連絡を取り合っていること自体を知っているはずのない優馬なのに、一体何を心配しているのか。だが勢いにまけてつい未生も約束をしてしまった。

 それにしても、なぜ尚人があのいけすかない秘書の連絡先などを探す?

 羽多野と尚人が一応互いの存在を認識していることはわかっている。羽多野はかつて、胃潰瘍と過労で倒れた栄を病院に見舞いに行ったときに、付き添いの尚人の姿を見たと言っていた。「雛人形みたいな可愛いカップルだ」と褒めているのか貶しているのかわからない所感を口にしていた。

 さらに夏前に偶然新宿で出くわしたときには、栄から、未生が尚人を「寝取った」ことを聞いたのだと言っていた。あのプライドが高く、誰より外面を気にするであろう栄から、どういう手を使って同性愛者であることや恋人を奪われたことを聞き出したのか――考えるとなおさら羽多野という男の不気味さが増した気がしたものだ。

 だが、未生の知る限り彼らの関わりなどせいぜいそれだけで、今になって尚人の側から羽多野に連絡を取るような理由はまったく想像ができないし、未生に黙って真希絵に聞くというのもさらに不自然だ。

 身支度をし、アルバイト先に向かいながら未生は貧困な想像力を総動員して考えるが、どちらかといえば人見知りでおとなしい尚人が自らあのうさんくさい男に関心を示すことなど想像できない。ということは、もしや羽多野の側が何かのきっかけで尚人に目を付けたとか? まさかとは思うのだがあまりに状況が不可解なだけに奇妙な妄想にとらわれてしまう。

 一応議員秘書らしく、さわやかで清潔感ある外見にそつのない振る舞いをしていた羽多野だが、未生が父のスキャンダルを週刊誌に売った際には普段の飄々とした態度が嘘のように激しく叱責された。その後の政治資金スキャンダルの際に聞こえてきた「押しが強い」「悪徳議員秘書」の声がもしもまったくの嘘ではなかったのだとすれば。例えば未生の父のスキャンダルの責任を負わされるかたちで職を失ったことを今も実は恨んでいて、その仕返しのため尚人を奪おうだとか――。

「いや、ねーだろ、あんなおっさん」

 羽多野は確か、今年三十八になる。尚人や栄からすれば八つも年上の四十絡み、しかも無職の男などどんな手段を使ったところであの真面目な尚人を落とすことなど。しかしそこで未生は動きを止める。

 考えてみれば尚人と未生だって八つ違い。意外と年齢差としてはたいしたものではない。それにいくら栄との仲が上手くいっていない状況に助けられたとはいえ、未生だって当初はかなり強引に尚人に迫ったのだ。未生よりは賢そうで口もうまいに決まっているあの男がその気になれば、もしや尚人は。

 未生はひどく落ち着かない気持ちで出勤し、その日はアルバイト中にもミスを連発してバイトリーダーや店長からひどく叱られる羽目になった。

 そして土曜の昼前、悶々とする思いを抱えて未生は尚人のマンションのインターフォンを鳴らした。不機嫌は顔に出ているだろう。もちろん尚人からも、この一週間の電話口での様子と同じように、できるだけ平静を装いながらも未生に何かを隠している後ろめたさがにじみ出ている。

「……徹夜明けで疲れてるよね? 眠いなら仮眠でもとる? それか、コーヒーでも淹れようか」

 不自然な笑顔を浮かべた尚人の腕をつかんで、まずは逃げられないようにする。

「あのさ、聞きたいことがあるんだけど」

「……え?」

 尚人の表情がこわばる。よくこれだけ嘘をつくのが下手で三ヶ月ものあいだ栄に浮気を隠せたものだと妙なことを考えながら未生はまずひとつめの質問をする。

「尚人、最近優馬と電話で話した?」

「え……あ、どうしてそれを?」

 否定はしない。だがまだ、未生が何をどこまで知っているか探ろうとしているような雰囲気だ。

「優馬が昨日、マラソン大会で順位が上がったって電話してきてさ。そのときに久しぶりに相良先生と電話で話したってはしゃいでたから」

 すでに尚人は、未生の様子がおかしいことには気づいている。未生が尚人に対して何らかの疑いを抱いていることを知って、内心ではひどく動揺している。そして――。

「あ、そうなんだ。うん……久しぶりにどうしてるかなって気になって」

「へえ、それだけ?」

 未生はその質問に最後の期待をかけた。これだけ疑いを匂わせれば、尚人だってさすがに白旗をあげるだろう。自分から、真希絵に電話をしたことや羽多野の連絡先を嗅ぎ回っていること、その理由に加えて未生に黙っていたことへの謝罪を口にするだろう。だが尚人は気まずそうに視線を逸らしたまま首を縦に振った。

「……うん」

 その瞬間、ガンッと大きな音が部屋に響く。燃え上がるような怒りに、未生は足元にあったゴミ箱を蹴り飛ばしていた。大きな音を立てて壁に当たったそれは横向きに倒れ、床に紙屑が散らばる。尚人を傷つけるようなことをしなかったのはせめてもの理性だが、それでも握った腕がびくり怯えたように震えるのは伝わってきた。

「尚人、自分がどれだけ嘘つくのが下手だか自覚してる? それとも嘘がばれるの覚悟で、どうしても俺には言いたくないってこと?」

 生まれ育ちも性格も、価値観だってかけ離れているから、普段から行き違いは多い。ささやかなけんかや議論を繰り返しつつ歩み寄る過程すら未生は恋愛の醍醐味として楽しんでいるつもりだった。

 尚人の鈍感さは穏やかさの裏返しで、尚人の優柔不断は優しさの裏返し。だから欠点すら魅力的に思えるし、何より未生は尚人が自分とはまったく異なる人間だからこそ強く惹かれた。だが、これは別問題だ。ぎりぎりまで追い詰められてまで嘘をつくというのは長所や短所や性格の問題ではなく、信頼関係に関わる。

「未生くん……」

 尚人が困惑したようにぎゅっと唇を噛む。どうしてすぐにでも隠しごとを謝罪してすべてを明かさないのか、未生はただ苛立つ。もしやここまで強情を張るということは、あの荒唐無稽な想像すら間違っていないのではないか。

「俺ってそんなに信用ならない? それとも、やっぱりガキより年上の方がいいとか? でも、なんでだよ。なんで、よりによってあんなうさんくさい奴なんかを……俺のこと嫌になったならそう言えばいいだろ!」

 先走った未生が脳内の最悪のシナリオに基づいて責め立てると、尚人は目を丸くした。

「待って、なんの話?」

「は? しらばっくれんなよ。だったら、尚人がなんで羽多野なんかに用事あるんだよ。どこで会ったんだ? あいつに惚れたのか?」

 前のめりに一方的な妄想をぶつけると、尚人の顔から怯えの色が薄くなり、代わりに浮かぶのは明らかな戸惑い。

「未生くん、何か勘違いを」

「俺に隠れてこそこそ人探ししてていまさら何が勘違いだよ。惚れたんじゃなきゃ、俺の親父の関係で嫌がらせでもされてるのか?」

 色恋が絡まないのであれば最悪の事態ではない。だが、だとすればなぜ尚人が羽多野を探すのだろう。そしてなぜ尚人がそれを隠す。

 未生のしつこい追求にさすがにこれ以上逃げられないと観念したのか、尚人は気まずそうに、申し訳なさそうに目を伏せた。

「違うよ、そういうんじゃない。第一、僕は羽多野さんとはほとんど面識ないし、どういう人かも知らないんだから。ただ、これには事情があって」

 少し落ち着いた未生は、尚人の腕を戒める力を緩める。

「俺に言えないってことは、よっぽど大層な事情があるんだろうな」

 浮気でもない、嫌がらせでもないとなれば未生には尚人の言うところの「事情」について想像もつかない。とりあえず暴力に訴えたくなるほどの怒りはいったんおさまったものの、まだ気は抜けない。

「いや、言えないっていうか、本当は言わなきゃいけないんだけど、なかなか言い出せなくて……本当に今日、今日直接会ってから話そうと思ってたんだ。まさか優馬くんが……」

 尚人は未生に視線を合わせないままでもごもごと言い訳のようなことばかりを口にする。いつまでたっても核心に迫らないことに焦れて未生は尚人のあごに手を伸ばし、ぐいと顔をこちらに向けた。

「……つまり?」

 目と目を合わせた状態で問い詰められた尚人は観念して、蚊の鳴くような声で告げた。

「その人の連絡先が知りたいって、栄が」