第3話

「え?」

 栄がぎょっとしたように顔をこちらに向けた。

 ひとまずシャワーヘッドはフックに戻し、問題の場所をもう少しよく観察するため羽多野は恋人の体を裏返し正面から向かい合うと、タイル張りの床に膝をついた。

「俺に言われたこと気にしてんの?」

 改めて至近距離で見ると、再渡英して最初にセックスのお許しを得たときから感じていたとおり、確かに栄のアンダーヘアは最初に寝たときよりはやや深い場所まで剃り込まれている。わけもなくこんなことをするわけはないので、きっと羽多野から「欧米ではアンダーヘアの処理は常識」と吹き込まれたことを気にしているのだろう。

 だが、素直に認めるのは恥ずかしいのか栄は首を振って羽多野の問いを否定した。

「まさか、ただ水着が……」

「どういう泳ぎ方すれば、こんな際どいとこまで水着が下がるの?」

 指の腹でつうっと、陰毛と素肌の境目をなぞる。へそよりもずいぶん低い位置、もしもジムでそんな水着を着ているのならば、また別のお仕置きを考えなければいけないくらいだ。――まあ、もちろん栄の言葉は嘘だとわかっているのだが。

 洗濯かごに入った栄のジム用水着を見たことがあるが、へその下から膝上までをぴったりと覆うごく普通のハーフスパッツタイプのものだった。

「健康と体型維持のためって言葉を俺は信じてるけど、こんなに股上の浅い場所まで除毛が必要なほどエロい水着使ってるとは知らなかった」

「違います、水着は普通のスポーツ用の」

「だったらどうして」

 言葉の逃げ場をふさぐと同時に、後ずさる栄を一歩一歩追い詰める。最終的にはスウェットを着たままの背中をぺたりと風呂場の壁につけたところで栄は動きを止めた。

「それは、えっと、手が滑って……」

 結局、新しい言い訳は思い浮かばなかったらしい。だが――なぜこの程度のことで意地を張るのかはわからないが――それでも栄は羽多野の影響を認めようとはしなかった。

 手が滑って、というあまりに苦しい言い訳を羽多野は気に入った。隠そうとする手を押さえながら栄の股間をまじまじと正面から眺め、真面目くさった顔で首をかしげて見せる。

「言われて見れば、確かにちょっと左右のバランスが崩れてるな。ちゃんと鏡見ながらやった?」

「か、鏡なんて」

 ナルシストのくせに羞恥心が強いアンビバレントな性質の持ち主であるから、栄はここでも羽多野の言葉にうなずくことができない。わざわざ裸体を鏡に映して剃刀を当てたと思われたくないのだ。

 言い逃れのつもりで墓穴を掘り続ける栄の姿は、羽多野の嗜虐心をそそる。込み上げてきた生唾を気づかれないように飲み込みながら生え際の下、ペニスの根本を薄く覆っている隠毛に指を絡めた。唇に隠しきれない笑みが浮かぶのを噛み殺すのも楽ではない。

「だろうな。慣れないうちって自己処理難しいし、上から見るのと正面から見るのは全然違うから失敗することもあるさ。まあ俺以外の誰に見せるわけでもないなら、多少変なかたちでも問題ないんだろうけど」

「――変?」

 わざとらしいほど思わせぶりな羽多野の言葉に、栄は顔色を変えた。こうなれば、勝利はもはや手の中にあるも同然。

「いや、気にすんなって。ちょっと左右のバランスがおかしいくらいだから」

「いや、気になるからわざわざ指摘してるんでしょう?」

 しゃがんだままの羽多野の両肩をぐいと押しのけて、栄はよろめきながら洗面台に向かいT字タイプのシェーバーを取り出した。案の定、見栄っ張りな男は自分の陰毛が奇妙な形状になっていると言われればいても立ってもいられない。

 とはいえ、彼自身「何がおかしいか」をわかっていないので、シェーバーを手にしたところで難しい顔のまま動きを止めてしまった。それも当然のことで、栄のアンダーヘアに特におかしいところなどなく、羽多野がいちゃもんをつけているに過ぎない。

「……やり方わかんないなら、手伝ってやろうか?」

 あまりにがっついた風だと怪しまれるのでしばらく黙って見守ってから、羽多野は満を持して切り出した。

「一回バランスよく剃っておけば、あとはその形をなぞるだけだし。眉の手入れと同じだよ」

「……」

 振り向いた栄は疑わしげな顔をしていた。だが、したたか酔っている状況なので、普段と比べれば圧倒的に猜疑心も警戒心も緩い。羽多野の言葉を信じきれない気持ちと、自分の体がみっともない状況にあることへの不安――揺れる心には、あとほんのひと押しで十分だ。

「万が一、ジムで着替えてるときに人に見られたり。ただでさえ欧米じゃあ処理が甘いと不衛生だと思われやすいからなあ」

 さりげない風を装って、人目を気にする男には何より響く渾身の言葉。案の定、青い顔で唇を噛み締めた栄は覚悟を決めたように手にしたシェーバーを差し出してきた。

「……絶対変なことしないって約束しろよ」

 押し殺すような声も今の羽多野にとっては「変なことをしてくれ」と言われているようにしか聞こえない。はいはいとおざなりな答えを返し、嬉々として受け取ったシェーバーのキャップを外した。

 羽多野のVラインは、ペニスの付け根あたりのごく狭い範囲を除いて永久脱毛済みで、残された部分は毛先がちくちくしないように専用のヒートカッターを使って短めに保っている。シェービングの場合も、できれば地肌に優しい専用シェーバーの方がいいのだろうが――まあ今日のところはこれでいい。

「転ぶと危ないから、後ろ寄りかかって。あと邪魔だから裾持ち上げておいて」

「……はい」

 再び壁に寄りかかり、着たままのスウェットの上着をたくし上げるように言うと栄は大人しく従った。羽多野にデリケートな場所を預ける不安より、今は不自然にトリミングされたと思い込んでいる自らの陰毛の方が気になるのだろう、日頃からは信じられないほど従順だ。

 まず羽多野は少量の湯とボディソープを手にとる。存分に泡立てたところで下腹部に載せてやると、栄の体に力が入るのがわかった。

 さっきとは異なり床が濡れているので、スウェットのズボンを腿までまくりあげてから再び床に膝をついた。高慢な王子さまに膝をついて、いやらしいサービスを施す使用人。そんなことを考えると倒錯的な歓びに目がくらむようだった。

 緊張のためか、もしかしたら少し肌寒いのか、栄の性器が普段より小さく縮こまっているのが愛らしい。もしここでパクリと口にくわえたらどれほど驚くだろう――そんないたずら心をなんとか抑え込んだ。フェラチオなんていつだってできる。なにしろ今目の前にあるのはもっと特別で、もっと面白いことなのだから。

「じゃあ、危ないから動くなよ」

 そう言って、左手で栄の腰骨を押さえ、右手のシェーバーの刃先を滑らかな下腹部の肌に落とす。栄がひゅっと息を飲んだ。

 そして羽多野はおもむろに――。

「あ」

「……あ?」

 股のあたりから聞こえた間の抜けた声に驚いて、栄が視線を落とした。まだ何が起こったのかは理解していないのか、きょとんとした顔でぱちぱちと目をしばたかせている。

 さて、ここまで来ればもう後戻りはできない。羽多野は精一杯の「申し訳なくてしかたなさそうな」表情を浮かべながら恋人の顔を見上げた。

「ごめん、手が滑った」

 栄の陰毛は――羽多野から見て右上部が大きくえぐるように剃り込まれていた。