おまけ(6)

 これまで出会った中で一番狡猾な男に壁際まで追い詰められた時点で、勝負など決まったも同然だ。うずく腰から気をそらすこともできず、栄はおずおずと切り出した。

「……あのですね」

 そう言ってバスローブの前を押さえる手を離すと、ずっしり重いタオル生地は重力に負けてあっけなくはだける。

 羽多野はあらわになった栄の前面――裸の胸や腹、そして卑猥な下着からわずかに顔を出した性器まで、じっくりと舐めるように視線を這わせた。性急に触れずに焦らしつつ、より明確な許可を求めようとする。

「君は面倒な男だから、もっとストレートに言って欲しいな。後で『そういう意味じゃなかった』って拗ねられるんじゃ、割りに合わない」

 そんなのは嘘だ。栄が後でどんな文句を言い出そうと、羽多野のことだから軽くあしらっておしまい。いまの彼はただ、栄が屈辱的な表情を浮かべて品のない言葉を口にするのを楽しみたいだけだとわかっている。だが要求に応じなければ望む快楽は与えられない。

 たやすく思うままになるのは悔しくて、だから栄はできるだけ何も感じていない風を装ってあけすけに告げる。

「俺だって、やりたくなることくらいあるんです。おかしいですか?」

 誰にだって性欲くらいあるでしょう。やけっぱちになってそう続けると、羽多野は嬉しそうに目を細めた。

「おかしくなんてない。つまり谷口くんの方から俺を誘ってるという理解で間違いないと、その言葉さえ聞ければ」

 手が栄の顎先をとらえ顔を上向かせる。隠微な笑みの奥には不似合いな、お気に入りの遊びをはじめる前の子どものように無邪気な高揚感が見え隠れしている。

「誘ってる? 馬鹿なことを言わないでください」

 あまりに楽しそうな様子の男が気に食わないから、栄はなけなしのプライドで言い返した。

「あなたは俺が命じたときにはいつだって奉仕することになってるってこと、忘れたとは言わせませんよ」

「つまりこれは、お誘いでなく命令というわけか」

 最近では会話の中に出てくることが減りつつある、かつて交わした約束――というよりは迷惑で不本意だという前提を崩さずに同居生活を続けるための方便。蠱惑的な表情も色っぽく誘う言葉も知らないし、知っていたところで使いこなせはしない。栄が羽多野に言葉で行為を要求するにはこれが精一杯だ。

「もうちょっとかわいくおねだりして欲しかった気もするけど、こういうのも君らしい」

 そして羽多野は再び耳元に囁く。では、このままバスルームで続けるのとベッドに戻ってご奉仕するのは、どちらが王子のお好みでしょうか? もちろん栄は後者を選んだ。

 寝室に戻ると羽多野は、ベッドの真ん中でついさっきまで境界線を主張していたバスタオルを乱暴に掴むと憎らしげに床に投げ捨てた。続いて栄の腕を引いてマットレスの上に引き上げると、一気にバスローブを剥く。

「――っ」

 前から見られれば極小の布を恥ずかしく持ち上げ亀頭をのぞかせる性器。かといってわずかなゴムバンド以外に何ひとつ覆うものもない後ろ側がましとも思えない。

 羞恥に全身を赤く染める栄を見ながら羽多野は満足げだ。「駄目元」で買って持って来た卑猥な下着を栄に履かせる幸運に恵まれたどころか、セックスをねだらせることにまで成功したのだから当然だ。

「やっぱりだな」

「何がですか」

 感無量とばかりにため息を吐く男に栄は悔しさを募らせた。いったい何が言いたいのか。というか、余計なお喋りをする暇があるのならばさっさと体に触れて欲しい。

「いや、俺の見立ては正しかったなと思って。最高に似合ってる」

 マットレスに膝立ちになった栄の肩に手を伸ばすと、羽多野は体を反転させてくる。前から横から、後ろからもじろじろと眺められ、栄からすれば「剃毛が似合う」と言われたときに負けず劣らず嬉しくない。

「これっぽっちも褒められている気がしないんですけど」

「最高級の賛美だと思ってくれよ。ほら、こういうのってスタイルが良くないと似合わないから。鍛えて筋肉つけまくった体より、俺はこういう無駄のない体型が好きだな。ほら、尻も」

 そう言って羽多野はするりと尻を撫でた。さんざんプール通いに文句をつけてきたくせに勝手な言い分だ。何か言い返してやりたいのはやまやまだが、栄の意識は剥き出しの肌を円を描くようにゆっくりとさする大きな手のひらに持っていかれてしまう。

「……っ、う」

「撫でられるだけで感じる?」

 体に触れられるのは今日はじめてだが、視線だけでも十分な前戯を施されたかのように栄の体は震えた。

「か、感じるっていうか、が」

 顔を見られたくない栄は前向きに倒れるようにして羽多野に体重を預ける。そう、このジョックストラップとやらが栄をおかしくしているのは確かだ。

が、どんな着け心地?」

 栄を受け止め、抱きしめ、羽多野は臀部への愛撫を続ける。

「どんなって、すごく変な感じで……」

 履き口のゴムバンドはしっかりと腰をホールドしているし、面積は小さいとはいえペニスと陰嚢を包む布は存在している。なのに尻だけは完全に無防備で、このまま羽多野が少し手を滑らせれば指先は窄まりに到達する。肌も、頭も、自分が下着を穿いているのか裸なのかわからず混乱しているというのが正直な感想だった。

「変か、確かにこのゴムのあたりなんかは、かなり普段のパンツとは違うだろうしな」

 人ごとだからとのんきなことを言いながら、羽多野は予告なしに右側の尻下にあるゴムバンドをを引っ張り、またすぐに離した。縮んだゴムがパチンという大きな音とともに尻を打ち、反射的に栄は「あっ」と、叫びなのか喘ぎなのかわからない声をあげた。と同時に性器の先端から少量の液体が噴き出した。

 不幸なのは、正面から羽多野と抱き合った体勢をとっていたことだ。羽多野はふっと笑って、彼の腹についた先走りを指で拭った。

「いきそうになったのか? こういうのも好きなんだな」

「ち、違うっ」

 栄は焦った。剃毛やら変な下着やらで興奮するだけでも最悪なのに、尻を打たれて性的に昂るだなんて。それでも否定の言葉を継ぐことができないのは、ようやく羽多野に触れられて、飢えて渇いた体が歓喜しているのを感じているからだ。

 恥ずかしい。もどかしい。混乱する思考の中で少しでも早く楽になる方法を探して、たどりつく答えはひとつ。栄は手を腰にやって忌々しいジョックストラップを脱ごうとした。

「もう脱ぎます、こんなのっ」

 こんなものを穿いているから羽多野はいつまでも面白がってセックスの手順を進めず、栄は屈辱を味わい続ける。それに中途半端な自慰と羽多野のささやかな愛撫だけで栄の前はもう濡れて、小さな布を湿らせている。これでは「ないよりはまし」の下着としての役目すら果たさない。

 栄がウエストのゴムバンドに手をかけると、羽多野が押し留める。

「せっかくだ、このまましよう」

「嫌だ……って」

 ごまかすように口付けられて、そのままマットレスに押し倒された。うっすらと甘い香りがするのは柔軟剤か、それともフレグランスを撒いてあるせいだろうか。

 最初はあんなに嫌だったのに、舌を絡ませるのにはすっかり慣れた。唇を吸われて噛まれて、舌で口の中をくまなく舐めまわされ、唾液を送り込まれる。冷静に考えれば他人の唾液なんて気持ち悪くてしかたないのに、あの日の羽多野が必死の形相で「受け入れてくれ」と訴えてきた姿が頭をよぎるから、栄は拒むことができない。いや、それどころか羽多野の唾液を味わい喉に送れば、それはまるで麻薬のように全身の感覚を敏感にするのだ。

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