ここ数日の家庭内のぎこちなさを思い起こして大きなため息を吐いたところでドアがノックされた。
「……どうぞ」
返事をすると、ひょっこりと顔を出したのは神野小巻だ。結局パブの夜の意思表明に押し切られるように羽多野は彼女の教育係を引き受けている。
「頼まれていた資料ができたので、今お見せしてもいいですか?」
「ああ、いいよ」
本当は仕事をするような気分ではないが、断るわけにもいかない。羽多野が椅子を勧めると神野は腰を下ろして資料の説明をはじめた。離婚の恨み辛みを語るときとは別人のように、態度は真面目そのものだ。
頼んでいた仕事もインターンにしては上出来だった。現実逃避で院留学を決めて、そのままモラトリアムを続けたいだけの甘えたお嬢様だとばかり思っていたが、意外と彼女の能力は高い。
こういうとき羽多野は、自分がいまだに育ちの良い人間への偏見を持ち続けていることを思い知る。偶然環境に恵まれただけで、当人はたいした能力もなく努力もしていないはず――たたき上げの自分より劣っていて欲しい――そう期待してしまう。人にはそれぞれ置かれた立場ごとの苦しみがあるとわかっているはずなのに、幼い頃から積み重なったコンプレックスというのは簡単に消えてはなくならないようだ。
「ふうん、まあいいんじゃない。ありがとう、助かるよ」
素直にべた褒めする気になれず、そっけない返事とともに資料を受け取り視線を逸らす。神野は不審そうに羽多野を見た。
「何かあったんですか? タカ」
――職場では日本人同士の会話であっても英語で通すように、と言った結果、神野と羽多野は英語での会話の際はファーストネームで名前を呼びあうことになった。違和感がゼロではないが、他の社員の手前ここでは欧米ルールで通した方がスムーズではある。
「何かって、何が?」
「機嫌悪そうだから。本当はその資料に満足してないのかなって思ったんです」
栄ほど外面を取り繕うタイプではないが、不機嫌の理由が理由だけに正面きって指摘されるとやや体裁が悪い。羽多野は小さくひとつ咳払いして改めて資料の評価を告げた。
「いや、これはよくできてるよ。俺はお世辞なんて言わないから、言葉通りに受け取っておけばいい」
「確かにそういうタイプには見えませんけど……」
言いながら神野の態度もどこか元気がない。「何がなんでもインターンでも結果を出して、英国内で仕事を見つける」と息巻いていた姿が嘘のように自信なさげな様子は気にかかった。
「そっちこそ、何をしょげてるんだ」
聞き返すと、赤い口紅を塗った唇からため息がこぼれる。
「なかなか就活が上手くいかなくて。応募しても応募しても駄目だから気が滅入っちゃいます」
とはいえ神野が本気で就職活動を始めてからは、まだ一ヶ月も経っていない。在留期限があるから焦る気持ちはわかるが、あまりに結果を急ぎすぎている。
「人生最初の挫折か?」
「いえ、二度目です」
からかい半分の質問に、返ってくるのは率直すぎる答え。一度目はおそらく、元夫の浮気による離婚。二度目が異国での就職活動への苦戦。逆に考えればそれ以外は特段の苦労なしに生きてきたのだろう。
「二度目なら、まだかわいいもんじゃないか」
そう言って羽多野が笑うと、神野はうらみがましい上目遣いでこちらを見る。
「そんなこと言えるほど挫折してきたようには見えませんけど」
当たり前だ。いかにも「挫折しました」というしみったれた顔を引きずろうものなら、惨めさは二倍にも三倍にもなる。哀れまれるよりは、図太くて情の薄い男だと思われた方がよっぽどまし。
だから羽多野はいつだって割り切って、忘れて、あきらめることを選んできたのだ。――本当に忘れられるかは別として。
「おっさんになると、いろいろあるんだよ」
「そういうもんなんですかね」
幸い神野は羽多野の過去には一切の興味を示さなかった。代わりにもうひとつため息を吐いて、言う。
「あーあ、やっぱり就活が失敗した場合に備えて他の方法探すしかないのかな」
「他の方法?」
「結婚とか」
迷いのない即答だった。
「知ってます? 日本人と英国人の国際交流パーティがあるんですって。交流って言っても実態はマッチングパーティみたいなもので、そこで出会った相手と結婚した人もいるらしいですよ」
羽多野は思わず神野を凝視する。就職活動に行き詰まった結果、頭が沸いたのではないか。報告書を見て意外と賢い女だと見直したことを後悔したくなる。
「やめとけ、そういうのに参加するのがまともな奴ばかりって保証はない」
そもそも神野自身が在留資格目当てで参加しようとしているのだから、他の面々の目的だって知れている。在留資格目当ての女と、自国女性に相手にされない男の結婚というのは先進国ではありふれた話で、失敗談だっていくらだって耳にしたことがある。
「第一、結婚にはこりごりなんじゃないのか。なのにただ日本に帰りたくないってだけで結婚に逃げるだなんて」
「こりごりです。だからこそ、夢見ることなしに実利だけ考えての結婚ってのもありかなあって。バツなんてひとつもふたつも一緒でしょう?」
愚痴の延長で極端なことを口走っているだけであるにしても、神野の考えはあまりに危うい。それに日本社会では「バツイチは許容範囲だが、二度の失敗は本人の人間性にも問題あり」と見なされる傾向もある。ひとつもふたつも同じであるとは言えない――と思うが面倒なので口には出さなかった。代わりに別の警告を与えることにする。
「この国の入管はけっこう厳しいぞ。偽装結婚と見なされれば国外退去だってあり得る。それとも相手が英国籍でさえあれば、どんな嫌な奴だろうが一緒に暮らしていけるのか?」
羽多野の目に神野はそんな辛抱強いタイプには見えない。すると彼女は少し考えてから、ずいと身を乗り出した。
「じゃあ、時間稼ぎでわたしと結婚してくれますか?」
「誰が? え? 俺?」
思わず自分を指して聞き返してしまう。
「ええ、別に英国人じゃなくたって、合法的な英国滞在ビザを持ってる人ならいいんです。それにコロンビア卒で英国の現地シンクタンクでバリバリ働いている人が相手なら、日本のみんなだって――」
そこで羽多野は確信する。結局はプライドの問題なのだ。
良い大学を出て、同期で一番に祝福されて結婚したお嬢様。アルバイト「ごとき」に夫を寝取られたことにはひどく傷ついただろう。だから元夫のことも、彼女を哀れんだ日本の友人知人のことも見返してやりたいのだ。そのための武器が「国際結婚」「海外でのキャリア構築」で、国際結婚が難しそうならば次善の策として「日本人ではあるが高学歴で海外のシンクタンクでバリバリ働いているエリート」。なんとも安易な話だ。
「馬鹿言うな。君が日本に戻りたくないから何をしようと勝手だけど、俺を巻き込もうだなんて考えるんじゃない」
羽多野が鼻で笑うと、神野は不満げだ。
「でも、身を固めたっておかしくない年齢でしょう? 確かにバツイチだけど、私って、そう悪い物件じゃないと思うんですけど」
「結婚には興味ない。それに相手はいるって言っただろう」
こういう面倒な話を避けるためにも最初のうちに恋人の存在は明かしてある。冗談交じりとはいえ「契約結婚」を持ち出してくるとまでは思わなかったが――。
「あーあ、タカなら遊び人っぽいから、私としても変な期待しないですむし、Win-Winだと思ったんだけどな」
羽多野はきっぱりと断ったにもかかわらず、神野はまだ奇妙な考えに未練があるようだ。
裏切られた傷が恋愛観を歪ませる。それ自体は理解できる。過去の一時期奔放に遊んだ時期があることも否定しない。だが羽多野はようやく理想の相手を手中に落とした蜜月の真っ最中だ。面倒ごとは抱えたくない。
「残念ながら俺は、一途で清廉な生活を送ってるよ」
「……そういうこと言う人に限って、裏切るんですよ」
神野は手元のファイルボックスから一冊のパンフレットを取り出す。表紙には「A Midsummer Night’s Dream」の文字。
「シェイクスピアの『夏の夜の夢』、友達と昨日観に行ったんです。観たことあります?」
「ずっと前に、一度」
あれは確か、まだアメリカにいたころだ。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのニューヨーク公演があるからと、リラに連れて行かれた。いかにも女子どもの好みそうなコミカルなラブストーリーだったが、洒落のきいた会話の掛け合いはそれなりに楽しんだ記憶がある。
二組の男女のもつれた恋模様がいたずらな妖精パックのせいで、さらこじれてしまう。紆余曲折を経るが、最終的にはめでたしめでたし二組のカップルが結婚式を挙げるという話だったか。よりによって離婚の傷を抱えている神野がなぜそんな舞台を観に行こうと考えるのか。
「じゃあ知ってるでしょう。妖精パックが花の蜜をまぶたに垂らすと、その人は、次に目にした相手に恋しちゃうんです。そのせいで嫌いだったはずの人を好きになったり、好きだったはずの人から心が離れたり――で、思ったんです。恋愛ってそんなもんだなって」
物語の結末は、花の蜜の力を借りてめでたしめでたし。だが神野はその結末をハッピーエンドとは思えないのだという。しょせんは魔法で操られた恋心。もしもまたどこかの妖精が花の蜜を使えば、すぐに再び心変わりをしてしまうのだろうと。
「つまり、何が言いたいんだ」
「人の心なんてそんなもんだから、はなから期待しない方がいいって思うんです。だったら愛だの恋だの求めるよりも、せめて在留資格を与えてくれる英国人男性とか、貞操に期待はできないけどグローバルエリートで見た目もいい男とか」
そう言って再びちらりとこちらに視線をやる。納得できないのは羽多野だ。グローバルエリートとか見た目がいいとかはともかく、「貞操に期待はできない」とは一体どういう評価だ。
「ちょっと、さっきからさんざんな言いようだけど、君から見て俺はそんなに浮気っぽく見えるのか?」
「浮気っていうか、なんか情が薄そうな雰囲気があるんですよ。そのくせいい男だから一筋縄じゃいかないんだろうなって。そもそも、そのスペックでその年齢まで結婚してない時点で遊び人認定は免れませんよ」
「……」
鋭すぎる指摘に羽多野は思わず言葉に詰まった。小娘だと甘く見ていたが、この女は思った以上に曲者だ。
「あ、否定しない」
「過去は過去、今は今。遊んだ時期もあったけど、もうそういうのはやめたんだ」
「……誠実ぶるだけなら簡単です。こっちが夢中になってるときに限って相手が浮気の虫こじらせたりするんだから、私はもう夢はみないって決めてるんです」
バツイチ女の愚痴などどうだっていい。だが、最後の言葉だけは妙に気にかかった。