19.羽多野

 ただでさえ栄の妙な態度に気が滅入っているところに神野のたわ言にまで付き合わされた。自宅――と呼べば栄は相変わらず嫌味のひとつくらいは言ってくるのだろうが――のドアに手をかけたところで、羽多野は体の芯からじんわり疲れがにじむのを感じた。

「ったく、歳かな……」

 コキコキと肩を鳴らしながら、思わず口から弱音がこぼれ落ちた。

 心身ともにタフな方だと自負しているし十近くも年若い相手と付き合うのであれば、まだまだ老け込むわけにはいかない。とはいえ四十手前にもなればたまにはこんな日もある。

 玄関に足を踏み入れると、室内はしんとして人の気配は感じられなかった。栄は残業もしくはジムだろうか。本人がいないのをいいことに勝手に寝室に入ってクローゼットを確かめるとジムに行くときに使うバッグが見当たらなかった。どうやら今日泳いでくるつもりらしい。

 不機嫌な顔で家の中をうろうろされるのも楽しくはないが、避けるように帰宅を遅らされるのも気にかかる。

 ここ一週間ほど栄のジム通いの頻度が高いのは事実だ。健康管理とナルシスティックなまでの容姿へのこだわりで、よっぽど忙しくない限りは週に一度か二度のスイミングを欠かさない栄だが、その頻度がやたらと高い。

 自分から言い出したにも関わらずフェラチオを断念したことが気まずいから――それだけが理由であればいいのだが、毎度のごとく正直な気持ちを口にしない相手には羽多野もやきもきしてしまう。

「こんなことなら俺もどっか寄ってくれば良かった」

 ジムなり、パブなり。運動でも喧噪でも、何かしら気を散らしてくれるものがあれば、こんな気持ちにならずにすんだ。そこまで考えて自分らしくもない考えに苦笑いした。

 情が薄そうに見える、と出会って日の短い小娘に看破された。というか過去にも同じようなことは数え切れないほど言われてきたし、正直自分でも薄情なタイプだと思っていた。ほんのしばらく前までは。

 恋愛は互いに束縛せず、結婚の条件は利害の一致。そんな価値観で生きていた若い日々をいまでは遠い過去のように感じながら、老成とはむしろ逆行する青臭い感情に身を焦がす。もどかしさと苛立たしさ、その奥にある甘い疼き。何もかも羽多野にとっては初めて知る感覚ばかりだった。

 人はそう変わらない。とりわけ三十路を越えれば性格を変えることなど無理に決まっている。ただ、ちょっとしたきっかけで隠されていた本質が露わになることもある。羽多野が栄の薄皮を剥いて少しずつ彼を暴こうとしているのと同様に、栄もまた羽多野が少年時代からのコンプレックスから身に固く纏ってきた何かを剥がしていっているのかもしれない。

 そこまで考えて、羽多野は小さく息を吐く。

 青い衝動を楽しむのも悪くはないが、かといってそれに身を任せすぎるのは危険だ。なんせ相手は世にも気難しい男。気まぐれですぐに機嫌を損ね、気位の高い猫にも似た彼は、内心で和解を望んでいたとしても、こちらが早まって手を伸ばせば再び警戒して物陰に逃げ込んでしまう。そういう生き物なのだ。

 だから今のところは、あえての無関心を装う努力をしたい。もちろんその努力が身を結ぶ保証もないし、計算も自制もきかなくなってしまう瞬間だってままあるのだが。

 先に風呂に入って食事を済ませ、しかし栄が何か食べたいと言い出したときのために、冷蔵庫の中に簡単に調理できる食材があることは確かめておいた。

 栄が帰宅したときには十時を回っていた。仕事を終えてジムに行って、ノルマとしている三千メートルを泳いだにしても、遅い。

「おかえり」

 すでにリビングでくつろいでいた、いやくつろいでいるふりをしていた羽多野はとりあえずなんでもない顔をして声をかけた。

「……早いんですね」

 自分の帰りが遅くなったことを詫びるのではなく、「羽多野の帰宅が早い」と事実をねじ曲げてとらえる。いかにも栄らしい詭弁は彼なりの罪悪感のしるしではあるのだが、残念ながらいまの羽多野はそれを微笑ましいとは思えなかった。

「君こそ、ドーバー海峡の往復でもしてきたか?」

 無関心を装うという決意をさっそく反故にしてわかりやすい嫌味で返すと、栄の耳元がさっと赤くなる。しかし予想したような激しい反論はなく、カバンを置くとそのまま冷蔵庫に歩み寄りビールの缶を取り出した。

 普段どおりの日課。夕食の主食を控えることはあっても一本のビールだけは譲れないのだという。議員秘書として多忙だった日々、帰宅後の一杯がわずかなリラックスタイムだった羽多野にもその気持ち自体は理解できた。

「飯は?」

 軽いジャブが空振りに終わったことで気の抜けた羽多野は、沈黙を埋めるように聞く。

「あー……」

 返事に迷うのは「せっかく運動した後に高カロリーのもので台なしにしたくない」といういつもの理由からなのか、それともどこかで誰かと食べてきたからなのか。

「食ってきた?」

「いや、えっと……昼が会食で重かったし、今日はこれだけで」

 そう言って軽くビール缶を持ち上げてみせる栄に、羽多野はそれ以上何も言わなかった。

 羽多野の座っているカウチソファに来ることはなく、ダイニングに立ったままでビールを空けた栄はそそくさとバスルームに去って行った。その後ろ姿に目をすがめ、羽多野の猜疑心は最高潮に達する。

 リビングに置き去りにされた栄のビジネスバッグ。のぞき見れば烈火のごとく怒るのは想像に難くないが、それはあくまで「のぞき見したことを知られた場合」のこと。目的を達成するためには手段は選ばない――羽多野の主義は相手が恋人であろうと変わらない。

 そっと廊下に出て耳をそばだて、バスルームから水音が響き始めるのを確認してからバッグに手をかける。

 財布はスーツのポケットだし仕事の書類を無用心に持ち歩くようなタイプではないから、中身などたかがしれている。目薬やリップクリームの入った小さなポーチ。英語の勉強用なのか、たくさん付箋の貼られた経済誌とレザーケースに入った電子辞書。そんな他愛のないものに混じって大判の封筒があった。隅を見ると、聞いたことのない企業のロゴマークが入っていた。

 経済アタッシェとして日系、非日系を問わず現地企業との関わりも多い栄だ。どこかの企業の人間と会うことも、資料を受け取って帰ってくることも特段奇妙というわけでもない。しかし羽多野の鋭い嗅覚はその封筒が怪しいと嗅ぎわけた。

 封印されていないそれを逆さにすると、中からは紙の束が出てきた。「アジア圏のソフトコンテンツに関する調査」という英文タイトル。そして、クリップで止められた名刺。ジェレミー・K・ウルフ。はっきりとした根拠はないにもかかわらず、羽多野はそれが、以前栄がジムで出会った「日本贔屓の男」であることを確信した。

 封されておらず宛名も書かれていない封筒に郵送の痕跡はなく、つまり栄はこのジェレミーなる男から直接レポートを受け取ったことになる。いったいいつ、どこで?

 もちろんこれ自体、栄の仕事に大いに役に立つ資料なのだろう。あの不器用で潔癖な男に浮気などという器用な真似ができるとも思わない。なんせEDに悩んで治療薬を取り寄せておきながら、夜の街を歩き回っても店に入る勇気すら持てなかったのが栄だ。

 だが、わざわざプール終わりに栄に声をかけてきた男の真意はどうだろう。思春期に入った頃には同性愛者であることを自覚していたという栄ではあるが、「周囲に気づかれてはならない」と過剰に欲を押し殺した結果なのか、普通以上に色恋の視線や欲望を向けられることには疎い。羽多野は普段から栄の言う「考えすぎですよ」は当てにならないと感じているのだ。