20.羽多野

 封筒の中身、それこそレポートの中身までざっと確かめてみたが、「度を越して不審なもの」――たとえばデートの証拠だとか、色恋を想起させるメッセージなどは一切見当たらなかった。羽多野は栄が風呂から上がる前に封筒を元どおりにしまい、何も探っていない・気づいていないふりを決め込むことにする。

 とはいえ心中は穏やかではない。

 今日はもう飲まないと決めていたのに、気づけば冷蔵庫に足が向いていた。一度はビールの小瓶を手に取ったが、こんなものでは気が晴れないとわかっているので結局グラスに氷を入れた。

 風呂からあがってリビングにやってきた栄は、ウイスキーグラスを手にした羽多野をちらりと横目で見る。平日の夜から強い酒を飲むなんて、と言わんばかりの冷ややかな視線。羽多野をそんな気分にさせているのが自分自身であることになど、これっぽっちも気づいてはいないのだ。

「君もどうだ?」

 毎度のわかりきったやりとり。色よい答えが返ってくるはずないのに、ついちょっかいをかけてしまう。案の定、栄はわざとらしく顔をしかめた。

「馬鹿言わないでください。あなたはどうだか知りませんが、俺は明日も仕事です」

「俺だって仕事だ。一杯くらい、影響しないさ」

「そうですね。で終わるなら」

 日頃から酒量が多くなりがちな羽多野に対してストレートな嫌みを口にして、栄は水のボトルを取り出した。

 とげとげしい態度からして、仲直りはまだ遠そうだ。いや、今回に限っては栄がちょっとくらいの「慈悲を見せた」として羽多野だって素直に尻尾を振ってやる気になれない。

 羽多野に黙って好みの男と繰り返し会う。いらいらと八つ当たりしてきたかと思えばベッドにやってきて、柄にもないご奉仕を申し出る。ここのところの違和感は、なかったことにするには奇妙すぎる。

 問い詰めたいことはいくらでもある。でも、今はそのときではない。もっと状況を分析して戦略を立てて、動くならば勝算を見極めてからだ。栄を落とすのにだってゆっくりじっくり絡め取るように、十分な時間をかけたではないか。下手なことをして、いつものような癇癪だけですむならば構わないが、もしそうでなければ?

 ふと、頭の中に神野小巻の声が響く。

 ――こっちが夢中になってるときに限って相手の浮気の虫が騒いだりするんだから。

 栄に限ってはそんなことがあるはずない。いや、でも本当に? 栄だって貞淑で従順な恋人を「尚人に限っては」と放置した結果、悲惨な破局を迎えたのではなかったか。

 喉にまとわりつく疑問を軽薄に口に出したくはない。言葉を洗い流そうとグラスを傾けるとスモーキーな芳香が鼻に抜けた。行きつけの店で勧められた限定もののアイラモルトだが、じっくり味わうような気分にはなれない。

「君の」と言ったところで一度止めたのは、ギリギリの自制心だった。振り向いた栄の怪訝そうな表情に、しかし続けずにはいられない。

「君の元恋人は、どういう人だったんだ?」

 怪訝そうな表情はすぐさま不審そうな表情に変わる。

「どうしたんですか? もう酔ったんですか」

 羽多野の耳にその言葉は、答えをはぐらかそうとしているかのように響いた。そういえば、以前は聞いてもいないのに何かと「尚人は」「尚人なら」と過去の話を繰り返していた栄だが、最近その回数はめっきり減った。羽多野と過ごすことで過去の恋愛が遠くなっているならそれでいいのだが。

 聞く限り、彼らの関係は壊れるべくして壊れたものに思えたし、栄もそのこと自体は認めている。未生と付き合っている相良尚人がいまさら栄に対して色気を出してくるようなことも考えづらい。

 嫉妬したことはなかった。お人形のようにかわいいカップルの、おままごとのような恋愛やセックス。自分はそんな甘っちょろいものとは違う、新しくて鮮烈な快楽を栄に与えているのだという自負もあった。

 そんな自信が、ふいに揺らぐ。

「いや、そういえば君が尚人くんのどういうところが好きだったのか、じっくり聞いたことなかったなと思って」

「聞いてどうするんですか?」

「ちょっとは参考にしようかと」

 羽多野らしくもない殊勝な台詞に、栄は失笑した。

「できるはずないです。羽多野さんと尚人は根本的に正反対ですから」

「そりゃ俺は谷口くんに〈かわいく抱かれたり〉することはできないけど」

「ほら、やっぱり酔ってるじゃないですか」

 風呂上がりのつやつやした顔から笑いが消えて、栄は羽多野の目の前までやってくるとテーブルのボトルを取り上げた。これ以上は飲むなという意味だが、羽多野はついむきになって栄の手を押しとどめる。

「酔ってない」

「だったら、変な話するのやめてください」

 変な話とはどういうことだ。相良尚人のことか、それともセックスの話だろうか。自分がたちの悪いからみ方をしている自覚はあるが、たしなめられればむきになる。栄はやはり、何かを隠そうとして話をそらしたがっているのではないか。

「変な話? 俺が谷口くんが好きなやり方を気にしちゃおかしいか。あの子相手にはリードしてたんだっけ? どんな風に?」

「だから、いくら気にしたところで尚人とあなたとは――」

 違う。そうだ、全然違う。可愛くて愛おしくてたまらない理想の恋人を失って、今目の前にいるのは大嫌いなタイプの男。その「大嫌いなタイプの男」に組み敷かれることを無自覚に望んでいるのが栄であるはずなのだ。でも、実は栄が今の関係に満足していないのだとしたら?

「谷口くん、まだセックスに未練があるのか」

 思わず口にすると、栄は目を丸くして手にした酒瓶からぱっと手を離した。あからさまな動揺。しかしそれはほんの数秒で、すぐにいつもの渋い表情を浮かべて後ずさった。

「……付き合いきれない。俺はもう寝ますから、あなたも水でも飲んでさっさと寝たほうがいいですよ」

 夏の積乱雲のようにみるみる湧き上がる不安は、羽多野を強引にさせる。逃がさないとばかりに栄の手をつかんで引き寄せると、近い距離から瞳をのぞきこむ。

「……君がベッドまで連れて行ってくれるなら」

 部屋に来い、つまりそういう意味だ。

 

 セックスがしたいわけではなかった。いや、もちろんしても良いと言われれたならば迷いなく据え膳は食う。だが先日の失敗を引きずっている栄がその気にならないことはわかっている。だから――せめてこの腕の中に。

 羽多野が手に力を込めると、栄はうろたえたように首を振った。

「だから、仕事がある日の前は嫌だっていってるでしょう。それに疲れてるんです」

「セックスはしない。疲れてたって隣で寝るくらいできるだろう」

 しかし返ってくるのはイエスではなく、じっとりとした疑いのまなざしだった。

「なんだその目は。俺が、君に無理強いしたことがあるか?」

「むしろ、無理強いしなかったことがあるんですか?」

 ぐっと言葉に詰まるが、それについては大いに反論したい。確かに、気持ちを確かめる前には少々強引なこともしたが、昨冬ふたりの関係が特別なものになって以降は栄が本気で嫌がるようなことはしていないつもりだ。完全にその気になっていたって栄が寝落ちしたときはそっとしてやっている。

 自分の感情には過剰なまでに繊細だが、人の心には鈍感な栄。羽多野の些細な気遣いになどきっと気づいていないのだ。

「今日は何もしないって。こっちだって疲れてるんだ」

 いくら年の割に性欲旺盛とはいえ、頭の中がセックスだけだと思われてはたまらない。羽多野がため息を吐くと、栄がぼそりとつぶやいた。

「疲れた疲れたって言うけど、毎日若い女の子と一緒で意外と楽しんでいるんじゃないですか」

 ほんの一瞬恋人の目によぎった不安の色を、羽多野は見逃した。何しろ神野小巻にはほとほと困っている。仕事の手間は増える、就職相談には乗らされる、それどころかあの女の歪んだ恋愛観に引きずられた結果、こんなおかしなことになっているのだ。

「は? 意味わからないことばかり言って、君こそ最近どうかしてるんじゃないか?」

 つい口にした言葉に、栄の顔色が変わった。

「どうかしてる? 何が――……」

 ふっと、沈黙が落ちる。

 何を考えているのだろう。きっとまた面倒なことをぐるぐると思い悩んでいるに違いない。ためらうなんて自分らしくないのに、羽多野はその先を聞くことを躊躇してしまう。「あなたのことなんて、好きじゃない」いつもならば聞き流せるはずの言葉を、きっと今日の羽多野は真に受けてしまうだろう。

 羽多野の気持ちを知ってか知らずか、ぐっと唇を噛んで栄は言った。

「わかりました、部屋に行けばいいんでしょう。でも男に二言はないでしょう。指一本でも触れたら」

「触れたら?」

「……言わなくたって、わかってるはずです」
 わからない。けどそれを正直に言いたくなかった。

 

 売り言葉に買い言葉で、最悪の雰囲気でベッドの中互いに背を向けた。せめて腕の中に抱きしめれば落ち着くのかもしれないが、そういう空気ではなかった。

 そのまま一時間、いや、もっと。いつしか背後から寝息が聞こえ始める。こんな状況で眠れるなんて、疲れているというのは本当なのだろう。だったら、得体の知れない男と会うよりまっすぐ家に戻ってくれば、マッサージでもなんでもしてやるのに。

 羽多野は、プールで栄に話しかけたという見知らぬ男のことを考える。栄好みの田舎くさい男だろうか。でも、素朴ぶって栄の気を惹こうとしたところで、そう簡単にいくものか。

「ん」

 身じろいで、寝返りを打つ栄。暗闇に慣れてきた羽多野の目に、白い首筋がなまめかしく映る。

 今夜は指一本触れないと約束した。でも――気づかれない程度なら。満たされない所有欲に身を焦がしながら、羽多野は栄のうなじに唇を近づけた。