39.栄

 さらに先端への刺激を続けると、羽多野の性器はぶるりと震えて栄の口の中であからさまに質量を増した。口にしているのはまだ先端だけなのに、手で触れたときより下半身に受け入れたときより、その存在感は圧倒的に感じられる。

 少しでも気を抜くと唇からつるりとこぼれ落ちそうなものを扱いかねる栄の髪を撫でて羽多野は言う。

「手も使えるか?」

 そういえば羽多野が栄に口淫を施すときも、口や舌だけでなく手も使っていただろうか。おぼろげな記憶をたぐりながら栄は手を伸ばした。

 たくましい茎に触れると、浮き上がった血管の感触が指先に伝わる。すでに湿っているのは羽多野があふれさせた先走りのせいなのか、それとも栄の口角からこぼれる唾液のせいなのだろうか。

 指先で血管をなぞり、やがて根元にたどりつくとずっしりとした膨らみを手のひらに載せる。さっき洗っているときにも思っていたことだが、普段よりずっと重く感じる。

 そういえば、ここのところ自慰を控えていたのだと恩着せがましくぼやいていたっけ。まさかそんなことで本当に重さに違いが生まれるとも思わないが、それでも栄は、くすぐられたようなむずがゆさを全身に感じてしまう。

 栄が思い詰めていたほどではないに決まっているけれども、この図太くて無神経な男なりに前回のセックスに思うところはあったのだろう――もちろん栄がフェラチオを拒否したことだけではなく、彼の勃起が途中で萎えてしまったことに対しても。だからこそ「次こそは」と羽多野なりに万全な準備を整えていたのだと思えば、それもまた悪い気はしない。そういえばここ一週間ほど、この男にしては飲酒量も少なめだったかもしれない。

 羽多野と神野小巻の間に何もないことは理解して、それでも心の奥に残っていたモヤモヤとした感情が、ここにきてやっと完全に取り払われたような気がした。

「ん……」

 棒付きキャンディをくわえる子どものように、しばらく先端だけを口の中で弄んだ。やがてあごがだるくなってきたので一度口を離し、やわやわと陰嚢を手でもみながら切っ先にキスするように唇をつけると、低く長い息を吐いて羽多野が気持ちよさそうに続きを促す。

「先、ちょっと吸ってみて」

 言われるがままに、さっきより割れ目が大きく開いたように思える先端部分をちゅっと吸うと刺激に応えるようにペニスはさらに硬さを増した。

 他人の局部を口にしているという、潔癖の自分には本来耐えられない状況。しかも――男性同士の関係では上下どちらかとは関係なしに一般的な行為だと頭でわかってはいるが――栄としては、性器をくわえることは他人への服従の証のようにも感じられ、抵抗のある行為だった。

 羽多野が口を使わせることに執着しなければ絶対にこんなことはやらなかったし、できれば今すぐやめたい。そして二度とやりたくない。

 だが――その思いと裏腹に、狡猾で強引な男に翻弄されひざまずかされているこの状況への非日常的な興奮はどんどん高まっていく。

 命じているのは、導いているのは羽多野。でも同時に彼は今、栄の唇や舌の動きひとつに翻弄されている。こちらの一挙一動に呼吸を乱して、敏感な場所のかたちを変えて。まるであべこべな、お互いに相手を支配しながら、お互いに相手に服従するシチュエーション。倒錯した状況や感情は栄の理性を奪った。

「次は、もうちょっと下を。舌使って。……うん、上手だ」

 きっと、ちょっと脅したり褒めたりするだけで何だってする単純な人間だと思われているのだろう。でも今はそんなことどうだっていい。どうせ、羽多野が満足するまでは終わらせてもらえないのだから、頭を真っ白にして行為に集中するだけ。

 さっきは指先でなぞった血管を今度は舌でちろちろとなぞる。横から茎にしゃぶりついて、唇で愛撫するように擦りたてる。やがて下腹部のむずがゆさが増してきて、栄は無意識に軽く腰を揺すった。

 自分もきっと勃起しているのだろう。羽多野が普段からからかってくるとおり、みっともないくらいすぐに濡れる体は、もしかしたら指一本触れてもいないのに滴をあふれさせているかもしれない。想像するとますます体温が上がった。

「谷口くん」

 羽多野が、栄を呼ぶ。後頭部を撫でていた手がするりと滑って耳たぶをくすぐるから、栄はぶるりと身震いした。

「目を閉じて奉仕してくれてるのもすごくそそるけど、ちょっと目を開けてみろよ」

 嫌だという意味を込めて、まぶたをぎゅっと閉じたままで首を左右に振る。目を閉じてさえいれば現実感は薄く、これは夢のようなものだと思える。だが、もちろん羽多野はそれを許さない。耳をくすぐり、首筋をくすぐりながら声を低くする。

「いいから、君がすごく頑張った成果をちゃんと自分の目で確かめろって」

 顔をぐいと引っ張られて口が性器から離れる。そして嫌々目を開けた栄は至近距離で、凶暴なまでにたくましく勃起した羽多野と向き合うことになった。バスルームの照明に照らされたそれは、羽多野の先走りと栄の唾液で濡れそぼっている。

 不思議だが、もはや嫌悪はなかった。それどころか栄は無意識に自分の喉が音を鳴らすのを聞いた。

「ほら、君がやったんだ。けっこう達成感あるだろ?」

 そういう羽多野の声色は平静を装いつつも、あからさまな高揚をはらんでいる。素直にうなずく気にはなれず、かといって羽多野の言葉を否定することもできず栄はただ欲情を込めた目で羽多野を見上げた。

 前回の雪辱は果たした。栄は約束どおり口で羽多野をここまで〈育てた〉のだから、この先にあるのはご褒美だけ。よくやったと褒められて、甘やかされて、この興奮しきったもので揺さぶられて――「自分は抱かれる側じゃない」という意地が完全に消えたわけではないが、栄はもう、この男が与える途方もない快楽を覚えてしまった。

 膝に力を込めて、栄は立ち上がろうとする。まずはこのままバスルームで。立ったままでも構わないから、すぐにでも。しかし羽多野は栄の肩にすかさず手を伸ばして動きを遮った。

「え……、う、んっ?」

 眉をひそめて意図を問いただそうとした瞬間、再び口が塞がれた。さっきより、ずっと深く。

「確かに頑張ったとは言ったけど、まだ終わったとは言ってない。ここまできたらちゃんと〈最後まで〉やれるだろ?」

 そこで栄は羽多野の意図をようやく理解する。

 栄の中で口淫とは、羽多野の性器を口に含んで愛撫することを意味していた。だが羽多野にとってそれは〈最後まで〉――つまり、口だけで射精させることまでを指していたのだ。

「ちょっと苦しいかもしれないけど、もうだいぶ慣れただろうから」

「ん、ふっ……」

 さっきまでの優しい手つきや、甘やかすような言葉が嘘のように、羽多野は栄の後頭部をわしづかみに、喉近くまでペニスを押し込んでくる。息苦しさと圧迫感に、なんとか体を引いて自由になろうとするが身動きが取れない。

 先端を含むだけで精一杯だと思っていたのに、強引に奥まで突っ込まれると口も、喉も限界を超えて開く。吐き気、そして涙がこみ上げるが、水泳で鍛えた体は鼻から呼吸することで器用に苦痛を逃がしてしまう。耐え切れる自分が悔しかった

「……は……っ、やっぱり、こっちもすごくいいな」

「こっちも」なんて、どこと比べているんだ、変態め。頭をよぎる憎まれ口はもちろん言葉にならなかった。口蓋を、狭い喉を、羽多野の熱くて固い性器でこすられながら栄は苦痛に顔を歪めた。さっきまでの達成感や興奮が嘘のようだ。

 やっぱりこんなことやるんじゃなかった。ちょっと唇や舌を使うだけならともかく、こんな苦しい思いをして。そして、終わらせるためには――。

 そこで、ぎくりと恐ろしい想像が頭に浮かぶ。

 どうして気づかなかったんだろう。

 最初から羽多野の目的を、どこが「ゴール」なのかを確認すべきだった。だって羽多野は栄のものをくわえたときはいつだって口の中でいかせるし、そうじゃなくたって栄の出したものは余さず呑み下す。人の体液を飲みたがるだけならともかく、栄が嫌がるのを知っていて唾液を飲ませたがる男だ。だったら、このシチュエーションで目指すことは……。

 先走りの味はなんとかがまんしたが、男の射精を口で受け止めるのはさすがに無理だ。栄はこの先を拒否するため羽多野の腰に手を伸ばし、ぐいと押す。栄の意図に気づいた羽多野は当然のようにあらがって、ますます激しく栄の喉にピストンする。口の中のものはますます熱くなり、反り返り、顎に触れる陰嚢がぎゅっと縮こまるのを感じた。

 嫌だ。喉に出されたら本当に吐いてしまうかもしれない。栄が想像しうる中で最悪の展開を覚悟してぎゅっと目を閉じた瞬間、急に口の中を占拠していた大きなものが抜き去られ、呼吸が楽になった。

「え……?」

 安堵より先に、驚き。まさかここで羽多野が譲歩するなんて。

 栄が羽多野の様子を確かめようとした、その瞬間のことだった。

 びゅっと熱いものが顔面に向けて放たれた。