40.栄

 鼻先に熱く濡れた感覚。それがどろりと頬、そして唇のあたりまで垂れてくるのに続いて、栗の花に似た独特の芳香が栄の嗅覚を刺激した。

「は……?」

 バスタブに膝をついたままで、右手を持ち上げておそるおそる自分の顔に触れる。粘り気のある液体を指先に取るまでもなくその正体はわかっているのだが、どちらかといえば認めたくない気持ちの方が大きかった。

 呆然とする栄とは対照的に、乱れた息を整えながら羽多野はこの上なく満足げだ。栄の肩のあたりに手をやって立ち上がらせると、そのまま壁にかかった鏡に顔を向けさせた。

 映るのは、いつもどおり整った自分の顔――と言いたいところだが、残念ながらひどい有様だ。羽多野が引っ張ったり撫でたりわしづかみにしたせいで髪の毛はぼさぼさに乱れているし、口元は唾液やら何やらで濡れている。極めつけは顔を汚す白濁。

 視覚に訴えられれば現実逃避する余地もない。栄は、精液を顔にかけられた事実を認めざるを得なかった。顔射、ぶっかけ、ポルノ動画で見るくらいなら別に構わないが、自分には縁のない行為だと思っていた。

「ひどい」

 つぶやくと、鏡に映る顔が怒りに歪んでわなわなと震える。まなじりには悔し涙すら浮かんでいるかもしれない。

「顔に出すなんて、あんまりだ」

 そう言った拍子に流れ落ちた精液が唇の端に触れる。口内に入り込んではたまらないとばかりにあわてて手で拭うが、わずかに粘膜に触れたそれは先走りとも異なる、青臭い味がした。

「だったら、喉に出したら飲んでくれたか?」

 これっぽっちも悪びれずに言い切る羽多野に、栄は噛みつくように声を荒げる。

「どうしてその二択なんですか!? ほんっとうに品性のかけらもない人ですね!」

 口に出して飲ませるか、顔にかけるか。その選択肢しか浮かばない時点で人格に問題がある。――いや、羽多野の人間性や倫理観がどうかしているのは今にはじまったことではないのだが。

 栄は怒りと嫌悪のままにごしごしと顔を拭うが、粘り気のある液体やそのにおいが顔や手に広がって不快感が増すだけだった。

「君が誰にもやったことなくて、この先も絶対やりたがらないようなことだからな」

 こともなげに言って、羽多野はシャワーヘッドを手に取る。水栓をひねって手の中で湯が適温になるのを待ちながら、楽しそうに、心底満足そうに栄の醜く汚れた顔を見つめた。

「光栄だよ。谷口くんに初めてフェラチオしてもらった男で、初めて顔にかけてやった男になれたんだから」

 初めて、という部分に力を込められると栄も複雑な気分だ。

 栄の経験を笑い、尚人との過去にはさしたる嫉妬を見せない男だ。羽多野が過去には男女関わらず多くの相手と寝てきたことや、身体的な問題さえなければ今も女と結婚したまま子どもの二、三人でも作ってニューヨークで平穏な生活を送っていたであろうことを苦々しく感じてしまう自分と比べれば、普段の羽多野はあまりにあっさりしている。

 そんな男が栄の「やったことがない行為」「できないと思っている行為」には不思議なほどの執着を見せる。それ自体に決して悪い気はしないのだが、「初めて」だけにこだわられるのは少し寂しい。

 確かに「初めて」は、その後誰がどれだけ続いたとしたって、決して塗りつぶされることのない特別な経験だ。だからこそトロフィーのように感じるのも、男として理解できる。

 ただ――。

「初めてどころか、二度と結構ですよ」

 わざとらしいため息を吐きながら栄が口にした憎まれ口の真意に、羽多野は気づいてくれるだろうか。くだらない一番乗りの勲章など求めなくたって、他の誰にもこんなことしてやるつもりはない。

 十分湯が温まったのか、羽多野がシャワーヘッドを栄に向けてジェスチャーで目を閉じるように合図する。

 ぎゅっとまぶたを閉じると、顔にかかったものが洗い流されていく。

「二度とやらない? それは残念だな。最初にしてはなかなか筋がいいと思ったんだが」

「おだてたって無駄です。もうその手には乗りません」

「……まじかよ。せっかく次以降のお楽しみにと思って、飲ませるのは我慢してやったのに」

「ろくでもないこと言わないでください。本当に嫌なんです、ああいうの」

 睦言のような応酬をしながら、羽多野は丁寧に栄の顔を清めた。

 お湯で洗い流してから洗顔用のソープを丁寧に泡立てて、頬を、まぶたを、鼻筋をなぞる。体を洗われたことも顔に触れられたこともあるのに、そういえば他人に顔を洗ってもらった経験などほとんどない。さっき無理矢理に喉奥まで性器を押し込んできた男とは思えないくらい優しい仕草に、我ながら単純だと思いながら栄はおとなしく身を委ねた。

 さっきほんの少しだけ口にした羽多野の精液の味を思い出す。確かに自慰を控えていたというだけあって粘度は高かったが、匂いも手触りも栄の知る精液と特段の変わりはなかった。ほんのわずかだけ感じた味も――ネットの体験談などで見かける感想と大差ない印象だ。

 でも「あの中」には決定的に欠けているものがあって、だから羽多野とリラとの結婚生活は破綻し、彼は男を抱くようになった。他人の不幸や肉体上の問題を笑うのは悪趣味だとわかっている。それでも栄は羽多野が抱える欠落に感謝せずにはいられなかった。

 

 栄の顔を洗ってから、ついでに二人ともざっと全身の汗を流した。バスルームを出るとタオルで申し訳程度に拭いて、そのまま向かうのはベッドルームだ。どうせ事後にはまた風呂に入るのだから、髪は乾かさなくてもいい。

 廊下に出て、向かう先はもちろん右側のドア――羽多野の寝室。しかし、サイドテーブルから何やら包みを取り出すと羽多野はそのまま再び廊下に引き返す。ご丁寧にもさっき口論の原因となったジェレミーからの贈り物一式まで拾い上げてから向かう先は、栄の書斎兼寝室だ。

「ちょっと、俺の部屋は駄目ですよ」

 栄はあわてて後を追う。

 まだ恋人になるなどとは夢にも思っていなかった頃、苛立ち紛れに羽多野が初めて栄の素肌に触れたのは栄の寝室だった。でもそれ以降は、栄が羽多野の寝室を訪れるのが暗黙のルールとなっている。

 羽多野はきっと、潔癖な栄はセックスで寝具が汚れるのを嫌がると思っているのだろう。それは確かに答えのひとつだ。だが、そのほかにも理由はある。

「羽多野さん! そっちの部屋は嫌だって」

 栄の制止を聞かず羽多野は、普段は入室にすらお伺いを立てる必要があるドアをばたんと開けた。そして追いかけてきた栄の腕をとって、そのままベッドに押し倒す。

「君の清潔なベッドに俺が入るのは汚い? それとも、君の聖域にセックスの記憶が残るのは嫌だ?」

 その言葉に栄は、これまで黙っていた理由もすでに感づかれていたことを知る。そうだ、ここは栄がひとりで本を読んだり、仕事をしたり、考えごとをしたり、眠ったりするための部屋。羽多野の体温やにおいが移ってしまったら、何かと思い出して落ち着かないに決まっている。

 だが、そんな理屈をいくら説いたところで効果がないことはわかっている。栄はとにかくここから逃げ出そうと暴れるが、その腕をやんわり押さえ込んで羽多野は首を左右に振った。

「勘違いするなよ、さっきのは前回の積み残し。約束を守ってもらっただけだ」

「……勘違い?」

 さっきの、がバスルームでの行為を指していることは理解できる。

 栄だって前回のことは引け目に感じていて、なんとか約束を果たそうとして思い悩んだ。そして羽多野の希望は結果的に叶えられたのだから、それでいい、それで終わりじゃないか。

 だが羽多野の思いは違っているようだ。

「やめろって忠告したのに、あんな奴相手に隙を見せた。俺に嘘をついてこっそり会って、しかもこんな物受け取ってくるなんて」

 羽多野は廊下から回収してきた黒いビニール袋を忌々しげにベッドに放った。わざわざそんな嫌味を言うためだけに持ってきたのだろうか。

「だから、それは、そういうつもりじゃなかったって言ったでしょう」

「ああ、聞いた。聞いたけど、結果的に何もなかったからって、それでめでたしめでたしってわけにもいかない」

 あんな屈辱的な行為に耐えて、顔にかけられたって我慢してやった。栄にとっては史上最大級の大サービスをしてやったというのに、羽多野はまだ足りないというのか。

 想像していた「続き」はベッドで仲直りの甘い行為。しかしそれは栄の勘違いだったようだ。立ち込める不穏な空気にすっと背筋が冷たくなる。

「……つまり?」

「今日の君には選択権はないっていうこと。俺がここでやりたいって言えば、それで決まり。そして――」

 仰向けに押し倒した栄が身動きできないよう器用に抵抗を封じながら、羽多野はにやりと笑う。

「君には、思い知ってもらわなきゃいけないことがある」

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