谷口栄という男に欲望を抱くようになって以来の念願のひとつを、羽多野はようやく果たした。
天まで届くプライドの持ち主である栄をひざまずかせて、口を使わせる――行為自体は拙くて生ぬるいものだったが、それこそが経験のなさの現れとして羽多野の興奮を一層かりたてた。
強引に導いてから優しくおだてれば、嫌々ながらではあっても栄は懸命に応じる。つい相手に褒められる行動を選んでしまう、お育ちの良い優等生の本能を利用することに罪悪感はない。それどころか下衆な目論見が当たるほどに、自分はやはり彼という人間を正しく理解できているのだと自信は深まる。
喉奥を突いて、ため込んだ熱くて濃いものをそこに出してやりたいという欲求はかろうじておさえた。栄本人にも冗談めかして伝えたが、厳密には「今日のところは」という留保つきで。顔に出してやりたいというのも別の野望として温めていたから、いずれにせよ順番に……といったところだ。
何より、一度に何もかもクリアしてしまうのはもったいないし、下手すれば後日のマンネリにもつながる。こういうところの我慢がきくのは、決してもう若くはないからだろう。がむしゃらな性欲で貪る若いセックスも悪くはないが、じっくりと少しずつ相手を拓いていく楽しみを満喫できるのも栄という相手に出会えた幸運ゆえなのだろうと思う。
顔に精液をかけられたことに気づいた栄はまずは唖然とし、それから屈辱と怒りに震えた。涙目で抗議してくる白濁で汚れた顔は写真で残しておきたいくらいだったが、狡猾な羽多野は、そのまま横暴な態度を続ければ王子が本格的に機嫌を損ねてしまうことを知っている。打って変わった優しい態度で彼の顔を洗い清めてやった。
シャワーを浴びて、体を拭いて、彼にとっての「大仕事」をやり遂げた安堵と達成感で、栄はすっかりリラックスした様子だった。羽多野としても今日のところは満足――と言いたいところだったが、バスルームを出て、床に転がったままの「不快なプレゼント」の数々を目にしたところで気が変わった。
鉄は熱いうちに打て。子どもや動物のしつけだって、タイミングが重要だと言うではないか。だったら、下心見え見えの相手に呑気に隙をさらして、こんなものをもらってきた栄に過ちを思い知らせるのは今しかない。
場所は栄の部屋で、栄のベッド。
ここで彼を組み敷くと、否が応でも最初の夜を思い出す。初めて肌に触れて、焼けつくような欲望を感じた。あのとき感じた恐ろしいほどの飢えは満たされた。だが、栄を知れば知るほど新たな飢餓感が羽多野を苛み、触れても触れても、その先を求めずにはいられない。
「思い知ってもらうって……何を」
見上げてくる瞳には怯えの色。フェラチオで羽多野のご機嫌が直って、今日のところはこれ以上何かを無理強いされることはないと思っていたに違いない栄は、自室に連れ込まれ凶暴な言葉を吐かれたことに明らかに動揺している。
羽多野はまず、ジェレミーから渡されたという箱を開けて中身を取り出す。血管やしわまでも、勃起した男性器をリアルに再現した生々しい玩具。ご丁寧に亀頭や竿だけでなく根元には立派な膨らみもふたつくっついている。シリコン製なのか程よい弾力があり、質感も硬く勃起したペニスにかなり近い。
「へえ、ディルドって初めて見るけど、ずいぶんご立派なんだな」
お嬢様のリラ相手には控えていたものの「道具」を使ったセックスの経験がないわけではない。若い頃は女友達と面白がって、離婚後は一夜限りの後腐れない相手との享楽的な行為を盛り上げるために、ローターやらバイブレーターやらは手にしてきた。だが、それらの道具は手に取りやすさを意識してか、たいていは流線型のフォルムに愛らしい色でデザイン雑貨のような見かけをしていた。初めて見る「模擬男性器」の露骨さは正直羽多野ですら眉をひそめたくなるくらいだった。
羽多野ですら「引く」ような代物を見たときの栄の反応はもちろんそれ以上だ。嫌悪、もしくは恐怖。
「な、なんですか、それ」
ベッドに仰向けに寝そべっているので後退りはできない。代わりにずるずると数センチベッドの上をずり上がった。
「何って、君がこの家に持ち込んだんだろうが。あの可愛いお友達から受け取って」
羽多野はまじまじとディルドの造形を検分しながら、無意識にそれを自分の持ち物と比べてしまう。作り物だけにご立派ではあるが、大きさだって硬さだって負けてはいないと思いたい。
「――そ、そんなグロテスクなものだって知らなかった」
「でも、あの袋におもちゃが入ってるのは知ってた。俺に黙ってこれで遊ぶつもりだったんだっけ?」
「だから、それは!」
知っている。栄はフェラチオができないことを気に病んでいた。ジェレミーがこれを贈ったのは「練習用」の名目だ。羽多野は栄の鼻先にディルドを突き出して、ふるふると振って見せた。
「早くに気づいて良かった。こんなおもちゃだろうが、君のフェラチオ童貞を先に奪われたと思えば面白くはないからな」
「だったらもういいでしょう。それ、どっかやってください」
心底嫌そうに栄が顔を背けるものだから、面白くなって偽物のペニスでぺちぺちと栄の頬を叩いてやる。
「そっか、せっかくのお友達からのプレゼントだから、今日はありがたくこれで遊ばせてもらおうかと思ったけど、谷口くんの趣味ではないと」
「趣味なはずないでしょう! それに使うって……羽多野さんこそ何考えてるんですか」
羽多野の言葉は当然ながら冗談だったが、目の前に凶器を突きつけられたも同然の栄は強い警戒を見せた。
未来永劫この手のグッズを使わないとまでは言わないが、今はまだ栄の口も尻も、自分以外の何かに侵略させるつもりはない。他の男に贈られたものなど問題外だ。
「そんなキーキー騒ぐな。君が嫌っていうなら、これはゴミ箱行きだ」
「絶対うちのゴミってばれないように捨ててください」
この状況でまだ世間体を気にしている栄に苦笑しながら羽多野はディルドを床に投げつけた。シリコン製のペニスはぼよんと弾んで、惨めにフローリングに転がる。いいざまだ。
羽多野が気味の悪いおもちゃを手放したことに、栄はあからさまに安堵した。
「もう、あなたって悪い冗談ばかり」
そう言って、話は終わったとばかりに体を起こそうとするところを羽多野は再度組み伏せる。
「おっと、まだ話は終わりじゃない。君に思い知ってもらわなきゃいけないことがあるって言っただろう」
栄はうろたえた。
「いや……あんなもの受け取ったのは悪かったって思ってます。変な気はなかったにしろ、結果的にあなたに残業だって嘘ついたのも、いいやり方じゃなかった」
回りくどい言い方ではあるものの、珍しいほど素直な謝罪。彼はまだ、羽多野が問題視しているのが今日の振る舞いだけだと思っているのだ。だが、羽多野が気にしているのはもっと根本的なことだ。
栄が前の恋人と付き合っているときは「抱く側」だったことはもちろん承知している。それどころか彼は自分を天性の「タチ専」で、本来は誰が相手だろうがリードする側に回るのが当然なのだと信じ込んでいる。羽多野との関係で、導かれ愛撫され貫かれてあんなにも乱れておきながらなお、信じがたいあきらめの悪さだ。
羽多野としては、栄の頑固さやマッチョイズムを嫌っているわけではない。彼が頑なでプライドが高くて、本来男に抱かれることなど想像もしていないからこそ、攻略する楽しみは増す。栄がこんなに面倒くさい男でなければ、羽多野だってここまでの深みにははまらなかっただろう。
とはいえ、あんまりに「俺は抱かれるばかりの男ではない」という思いをこじらせると、どうやら栄は良からぬ行動に出てしまうらしい。彼がリードできる(と思い込んだ)、彼が本来好みである(と思い込んでいる)相手に、自尊心を慰撫してもらいたいがためにふらふらと近寄っていく。彼の倫理観の強さからして本物の浮気に結びつくことはまずないと信じてはいるが、危険な行為であることは明らかだ。
「反省してるなら、ちょうどいい。俺も、自分の欲望を押し付けるばかりで君のやりたいことをないがしろにしすぎていたかもしれないって思っていたところだ。だから」
羽多野はさっき寝室からとってきたもうひとつの包みを拾い上げ、中身を取り出した。いつ使うかまでは決めていなかったが、栄が「そっちの欲望」を持て余す可能性が頭をよぎり、しばらく前に密かに買ってあったものだ。
「今日はこっちで遊ぼうか、谷口くん」
「……羽多野さん、それは?」
羽多野の手の中にある新しいおもちゃが何であるのか、栄はよくわからないといった様子で眉をひそめた。