ミカドゲーム(2)

 土曜日の午後、栄はくつろいだ気分で仕事の資料と向き合っていた。

 円安問題を受けて仕事量が増えているため前日の金曜日はそこそこ遅い時間まで残業をして、帰宅してから羽多野が準備した軽い夕食をとった。

 後片付けも引き受けてくれるという言葉に甘えて風呂に向かい、のんびり湯船に浸かってからバスルームを出ると、すでに羽多野の寝室の明かりは消えていた。

 休前日前の晩に抱き合うのは二人にとって暗黙の了解であるが、栄の仕事が立て込んでいるときに「夜のお勤め」をキャンセルするのもまた暗黙の了解である。

 正確には、栄が意図的なすっぽかしを繰り返すうちに、羽多野があきらめた。疲れ果てて不機嫌で、さらには意識が仕事に向いたままの恋人を無理やり抱き寄せても面白くないことに気づいたのかもしれない。

 共に過ごす日を重ねて、栄の心身のコンディションを察する能力が上がった羽多野は、最近では先回りして部屋の明かりを消すことで「今日は無理しなくてもいい」と意思表示をすることすらある。実にありがたいことだが――いくら勘の良い男でも、常に完全に栄の希望を汲めるとは限らないのが難点だ。

 現に昨晩の栄は、いくらか疲れてはいたが「したくない」ほどではなかった。

 これからも円安、そして日本国内の景気減退局面が続くようであれば、多忙は増して疲れは蓄積していく。だったらまだ余裕のある今のうちに羽多野の体温を確かめておいた方が良いのでは、というのが正直な気持ちだった。

 素直ではなく、日常生活では口論や衝突の多い自分たちにとって、肌触れ合うことが重要なコミュニケーション手段であることは、栄だって内心では認めている。セックスの間隔があまりに長くなると旺盛なタイプの羽多野の不満も高まるだろうし、栄だって多少は寂しい。

 というわけで昨晩に限っては、羽多野の気づかいは余計なものだったのだ。

 しかし、相手が何もせず寝るつもりでいるところに夜這いさながら押しかける――しかもこの場合、あえて言葉を選ばずに言うならば「抱いてもらう」ために――当然ながら栄の自尊心と羞恥心は、それを許さない。

 悶々とした気持ちを抱えて自室に入った栄だが、なんだかんだと疲れていたようで、ベッドに横たわるとすぐに睡魔に襲われた。結果的に羽多野の配慮は正解だったことになる。

 

 前夜の紳士的な振る舞いへのご褒美、もしくは自制させてしまったことへの罪滅ぼしとして、朝食後に栄は珍しく羽多野をジムに誘った。

 帰りに気に入っているカフェでランチを食べて、野外マーケットで買い出しをした。それから栄はのんびり持ち帰り仕事。羽多野は本を読んだり映画を観たりして過ごしている。

 平和すぎるほど平和な土曜日に完全に気が緩んだ頃に、突然テーブルの上のスマートフォンが震えた。

「……?」

 ロック画面に浮かび上がった名前に、栄は怪訝な顔をする。

 目に入るのは長尾の名。気のいい男ではあるが、休日に連絡を取り合うほど親しくはない。そもそも今この瞬間まで、自分と長尾が互いの電話番号を知っていることすら忘れていた。

 赴任当初に飲みに行ったときにでも、連絡先を更新しただろうか。記憶ははっきりしない。

 同じ大使館勤務とはいえ長尾と栄の業務に重なり合う部分はないから、用事があったとして職場でやり取りすれば足りる程度のものだ。これまで私用携帯に電話をかけたことも、かかってきたこともなかったはずだ。

 その長尾が、なぜ?

 スマホに手を伸ばす決断をする前に、栄は数メートルしか離れていない場所で呑気もしくは嫌みったらしくペーパーバックをめくっている男の様子を横目でうかがう。後ろめたさはない。だが、かつて栄を食事に誘った自衛官の存在に羽多野は不機嫌を隠さなかった。

 栄の中には昨晩羽多野に配慮させてしまったことが漠然と「借り」として残っている。ここで勘ぐられるような行動をとって羽多野を刺激するリスクは犯したくなかった。

 とりあえず着信は無視しよう。少なくとも仕事の緊急連絡ではないはずだ。そう決意したところで、板張りのテーブルで振動するスマートフォンの音に気づいた羽多野が顔を上げた。

「谷口くん、電話鳴ってる」

 思わず舌打ちしそうになるのをなんとか堪え、仕事に集中していて着信に気づかなかった振りをする。

「あ、職場から」

 わざとらしくつぶやくと、スマホを手にして椅子を立った。少なくとも仕事の関係者からの電話であることは事実だ。

 機密情報を扱うこともあるから普段から仕事の電話をするときは必ず自室にこもる。同じように振る舞ったとして羽多野は不自然には思わないだろう。

「もしもし」

 それにしても一体なんの用件だろう。訝しみながら通話ボタンを押すと、長尾の声が響いた。

「あ、谷口さんこんにちは。突然すみません」

 普段はむしろ好感を抱いている明るく爽やかな長尾の声が、この瞬間は無神経で場違いなものに感じられる。栄は平静を装うため音を立てず深呼吸をした。

 声の響き、かすかに入り込む雑音からして長尾は屋外にいるようだ。

「今、大丈夫ですか?」

 電話口の定型文句を「電話で少し話をしても迷惑ではないか」という意味に受け取った栄は反射的に「ええ」と答えてしまった。

 外面の良い栄はこういうとき、内心どれだけ苛立っていたとしても電話を迷惑がる素振りを見せない。それどころか無駄にサービス精神を発揮して、自虐的に「寂しい独身男」を演じて親しみやすい人柄をアピールしてしまうのだった。

「やることもないし、家で資料整理してましたよ」

 自分の答えが完全なる間違いだったと気づくまで三秒。長尾はほっとしたように言う。

「良かった。だったら、今からちょっとだけうかがってもいいですか」

 ――栄の頭は真っ白になった。

「え……?」

 長尾は何と言った? 今からうかがう? つまり、今すぐここへ来たいという意味だろうか? 考えるまでもなく理解できるはずの言葉を飲み込むのに、なぜだか時間がかかった。

 栄の戸惑いに気づいたのか、長尾は慌てたように少し早口で言葉を重ねる。

「いえ、お邪魔しようなんてつもりはなくて、ちょうど日本から荷物が届いたんです。ほら、昨日職場で日本のものが高くて品薄だって話をしたじゃないですか。だから、少しお裾分けしようかなと思って」

 息継ぎなしに、まるで言い訳のようにまくしたてるのは彼らしくもない。違和感はあったが、それより何より申し出の内容が栄を当惑させた。

 日本のものが高くて困っているとぼやいていたのは自分ではなく久保村だ。それより何より、長尾がここに来るだって? 冗談ではない。

 職場の人間に自分が男と同居していることを知られるだなんて、想像するだけで卒倒しそうだ。

「い、いや申し訳ないです。そんな貴重品! それに、俺より日本食材を求めてる人が他にいますから」

 穏便に長尾の親切を断ろうとする努力も、長尾の耳にはただの遠慮と響いたようだ。

「賞味期限もあるものだから、ひとりには多すぎるんです。かといってご家族いる方にわけるほどの量もないから、是非谷口さんにもらって欲しくて」

「お気持ちはありがたいです。ただ俺……、あ、そういえばこれから外出の予定があったんでした」

 さっきは暇を持て余していると言っておきながら、突然外出の予定を持ち出すなんて。この場を逃れたい一心で言い訳を紡ぐが、長尾は珍しく食い下がった。

「実はもうスローンスクエアにいるんです。ちょうど近くに買い物の用事もあったので。本当に、玄関先で渡すだけ、一瞬なんで」

「玄関先で、一瞬……」

 そこまで言われて、どう断ればいいというのか。これ以上拒み続けても逆に不自然に思われてしまうのでは――。栄には、家に来られては困る事情を勘ぐられたくない弱みがある。だからこそ、長尾の訪問を強行に拒絶することはためらわれた。

 どうしよう、玄関先で荷物を受け取るくらいなら大丈夫だろうか。

 羽多野には絶対に出てこないように言えば――意地の悪い男ではあるが、さすがに栄の社会的立場を無視するほど馬鹿ではないはずだ。

 進退極まった栄は、最終的には長尾の親切を受け入れるしかなかった。

「すいません。本当に時間がないのでお構いできませんけど……」

 鍛え上げた鉄壁の外面も、さすがにこのときばかりはほころんでいたかもしれない。栄の声にははっきりと苦悩が滲んでいた。