ミカドゲーム(3)

 電話を切ってから数秒間、栄は硬直してベッドサイドに立ち尽くしていた。

「何だったんだ、今のは」

 長尾の名と通話時間が表示されたスマートフォンの画面を見つめ、頭の中でやりとりを反芻するうちに、取り返しのつかない失策がじわじわと現実味を帯びてくる。

 いくら玄関先だけとはいえ、羽多野と暮らす家に他人がやってくるなどあってはならないことだ。なんせ事情を察しているであろうトーマスやアリスすら、一度だってここに招いたことはないのに。

 込み上げるのは「何とかして、いや何としてでも断るべきだった」という苦い後悔だ。

 穏やかすぎる土曜の午後に、突然降って湧いた大災害。あまりに予想外の展開に動揺してしまったが、もっと冷静に考えていれば上手い切り返しができたのではないだろうか。

 今からでも長尾に再度連絡をして穏便に来訪を取りやめてもらう方法を探った方が――と、往生の悪い思考に引きずられかけて、慌てて栄は頭を振る。駄目だ。残念ながらもはやそんな余裕はない。なぜなら長尾はすでに最寄り駅まで来てしまっているのだから。

 果たして自分はあの男に住んでいる場所を教えたことがあっただろうか、そんな当たり前の疑問すら浮かばないほど栄は焦っていた。残された猶予はおそらく10分少々。その短い時間でせめて玄関周りからだけでも完全に同居人羽多野の痕跡を消し去らなければいけない。

 一度大きく息を吸って、吐いてから覚悟を決めて栄は部屋を出る。そのままリビングへ向かいドアを開けると、さっきと変わらずのんびりと本に目を落としている羽多野に用件を告げる。

「羽多野さん、今すぐここを出て行ってください!」

 一瞬の間。それから羽多野はゆっくり顔を上げた。

「……は?」

 もちろん、浮かぶのはこの上なく怪訝な表情だ。苛立ちか、呆れか、困惑か。いや、この際なんだって構わない。限られた時間でなすべきことをするために、栄は最短距離で要望を伝える。

「時間がないんです。そこに散らかしてる私物集めて、さっさと出ていってください」

 栄がダイニングテーブルで仕事をしているのをいいことに、リビングのカウチやフローリングには本やらタブレットやらプルオーバーやらDVDやら、羽多野の私物が乱雑に置いてある。どう見ても栄の趣味とは異なるそれらは、ひとまず片付けてもらう必要がある。

 一方的かつ乱暴な栄の物言いに、羽多野はペーパーバックを閉じると、わざとらしいため息をついた。

「ったく、何度蒸し返せば気が済むんだよ」

「はあ? 何言ってるんですか。は初めてです!」

「しらばっくれるなよ。同居を認めたかと思えばいきなり機嫌悪くなって出て行けって騒ぎ出すの、もう何度目だ」

 羽多野が素直に要求に従おうとしないことに栄は焦る。そもそも過去の同居論争と今頼んでいる内容はまったく異なるものだ。自分の口調が「頼みごと」とはかけ離れた横柄なものである自覚は皆無だった。

「誰が永久に出ていけなんて言いました? 俺が連絡するまで数時間程度、どこかで暇をつぶしてきて欲しいって言ってるんですよ」

「……言ってないだろ」

「そこまで微に入り細に入り説明しなくたって、いい加減そのくらい察してください」

 投げつけた言葉が羽多野に当たって「カチン」という音が聞こえたような気がした。というのはあくまで比喩だが、とにかくそのくらい明白に羽多野が機嫌を損ねるのがわかった。

 しまった、と栄が一瞬わずかに動揺した隙を逃さず羽多野はさっと手を伸ばしスマートフォンを奪い取る。

「何するんですか!」

 スマホなんてプライベートの極致。恋人でも家族でも、勝手に奪い取って良いものではない――と、かつて恋人尚人の浮気の証拠を掴もうとスマホにGPSロガーを仕込んだ自分が言えた義理はないのかもしれないが、少なくとも栄はもう二度とあんな愚かなことはしないと決めている。

 羽多野はロックがかかった画面を一瞥してから口を開いた。

「さっきの電話、誰から? 何の話だったんだ」

「……仕事です」

 嘘ではない。

「そんなはずないだろ。仕事の電話の後に血相変えてやって来て、俺に出ていけなんて怒鳴るのか?」

 だから、嘘ではないのだ。長尾は職場の同僚だし、彼が物資のお裾分けに来るのもあくまで職場の雑談の延長だ。栄の中では矛盾はない。ただ――極限まで、いや必要最低限以下のレベルまで説明を省略してしまっているだけで。

「そんなはずあるんですって!」

 栄は負けじと言い返し、むしり取るように羽多野の手からスマートフォンを取り返した。

「不満があるなら後で説明します。とりあえず今は時間がないんだから、俺の言うとおりにしてください。ほら、本読むならここでも外でも一緒でしょう。角のカフェに行けばいいじゃないですか」

「やだね」

「はあ?」

「とりあえず出て行けなんて言われて、素直にうなずくはずないだろ。先に理由を聞いて、納得できたら谷口くんの言うことを聞く」

 栄は羽多野に隠しごとをしているわけではない。ただ時間がないから説明は後にさせてくれと言っているだけだ。だが焦りのあまりその気持ちをうまく伝えることができないし、一度機嫌を損ねた羽多野は果てしなく頑固で厄介だ。

 ちらりと時計に目をやると、すでに不毛なやり取りで2分はロスしている。これ以上羽多野の相手をしている余裕はないと判断し、すぐさま作戦を変更することにした。

「じゃあ、出て行かなくていいです」

「え?」

「ただ、荷物は全部まとめて寝室に行っててください。息は殺して。もしちょっとでも物音立てたら本気で追い出します」

 言いながら栄は、そこらに散乱している羽多野の私物を拾い集め、呆気に取られた様子の腕の中に押し込んだ。

 長尾を部屋に上げる気など毛頭ないのだが、予想外の事態に備えるのが危機管理というもの。少なくとも玄関とリビングくらいは完璧な「ひとり暮らし」に見えるよう整えておきたいのだ。

 栄が言いたいのが「出て行け」というより「リビングから姿を隠せ」であることを知り、ようやく羽多野はおぼろげに事態を把握したようだ。廊下に向かってぐいぐいと背中を押されながら、質問を口にする。

「もしかして、客が来るのか?」

「職場の人が、ちょっとだけ。断ったのにもう近くにいるからって譲らないから。玄関から上げるつもりはないですけど、念のためリビングも片付けます」

 口にすれば事実はあっけなく、最初から筋道立てて説明していた方がよっぽど時間の節約になったのかもしれない。だが、栄が詳細を話したくなかった理由は他にもあった。

「トーマスじゃなくて?」

 ほら、やっぱり羽多野は「誰なのか」を聞いてくる。

「だったらこんなに焦りませんよ」

「まあ、あいつはわきまえてるから、家に行くなんて言ったら谷口くんが嫌がるってわかってるよな。だったら君とオフィスをシェアしてるもう一人?」

「久保村さんでもないです。ほら、前に――」

 栄はそこで口をつぐむ。前に一緒に食事に行く予定だった、と言えばきっと羽多野を余計に刺激する。

 相手を確かめてやろうと玄関先で冷や汗をかいて長尾に応対する姿をドアの隙間からのぞかれるだけでも悲劇だが、万が一栄への嫌がらせ目的で部屋から出てこようものなら悪夢を超えて身の破滅だ。

「前に、職場で日本食材の値段が上がったって話をしたんですよ。それを覚えていて日本から届いた物資をお裾分けしてくれるって、それだけ。羽多野さんの知らない人ですよ」

「へ~~~」

 わざとらしく語尾を伸ばした、白々しい返事。何か口にすればするだけ自分が墓穴を掘っていることを栄は認めざるを得なかった。

「普段業務時間外にほとんど人付き合いしない君にそんな同僚がいるなんて初耳だな。しかも平日職場で受け渡せばいいものを、わざわざ休日を狙って」

「知りませんよ。あっちも……」

 独身だから、休みの日も暇なんじゃないですか――と言いかけるが、いけないこれもNGワードだ。不自然に途切れる言葉に羽多野の不信感はマックスで、追い詰められた栄はいよいよ懇願した。

「だから、申し訳ないとは思ってます! 出て行けなんて言わないから。ただ、俺の体面のために余計なことしないで隠れてて欲しいってだけです。お願いですから!」

 恋人から存在を隠蔽されて楽しい気分でないのは確かだろう。だが、これが栄としてはできる限りの譲歩であることはわかって欲しい。

「家に男がいるからって恋愛関係を疑う奴って、そうそういないだろ」

「俺、ひとり暮らしで庶務に届けてるんですよ。虚偽申請を疑われるだけで困ります」

 羽多野の不満そうな表情は変わらない。だが栄がようやく低姿勢に「お願い」したことで、少しは溜飲が下がったようだ。

「そういえば、そういう理屈だったっけな。とりあえず、わかったよ」

 嫌々ながら荷物を抱いて、寝室に足を踏み入れる。

 窮地に立たされている栄の気持ちを知ってか知らずか、ドアが閉まりきる直前、羽多野は低い声で告げる。

「ただし、そいつが何者で、なんでわざわざ休日に押しかけてこようとしてるのかについては、聞かせてもらうからな」

「……ちょっと、何怖いこと言ってるんですか!」

 こんな捨て台詞を吐く男が果たして本当におとなしくしていてくれるだろうか。

 何かあったときに閉じ込めておけるよう、羽多野の部屋には外鍵をつけておくべきだったかもしれない。自分がどれほど理不尽な要求をしているかは棚に上げて、栄はそんなことを考えた。