時期的には「こぼれて、すくって」最終話あたり。
街はすっかりイルミネーションに彩られクリスマスも間近に迫る師走下旬。長尾は大使館の廊下をかれこれ三往復ほどしたところだった。
この先には経済部の執務室。そしてそこには長尾の憧れの人である谷口栄のデスクがある。長尾が今からやろうとしているのはまったく難しいことではない。ただ谷口のところまで行って声をかけるだけだ。
谷口はきっといつもどおりに笑顔を浮かべて「長尾さん、お疲れさまです。何かご用ですか?」と聞くだろう。長尾も下心ゼロ(に見えるはず)の人の良い笑みを顔に貼り付けて、このフロアに用事があったのでついでに寄ってみたのだと答える。そのまましばらく雑談を交わしてからタイミングを見計らって本題を切り出せばいい。
いかにもふとした思いつき風に「あ、そういえば谷口さん、クリスマスって何か予定あります?」と――。
日本では魔改造によりカップルがプレゼント交換をしてイチャイチャする日、せいぜい子どもたちがケーキとチキンを食べてサンタクロースを待ちわびる日となっているクリスマスだが、ここ英国では基本的には家族で過ごす祝祭日と位置付けられている。
どちらかといえば日本の元旦に近いイメージだろうか。信心深い家庭であればクリスマスミサに出かけることもあるだろうが、とりたてて外出もせず家族が集ってのんびりと食事をしながら過ごすのが一般的だ。そもそも店もろくに開いていなければ公共交通機関すら普段ほどは稼働していないので、外に出たところでやることもない。つまり、家族もいない独り身の人間にとっては、一年で一番やることのない日がクリスマスだ。
昨年の長尾は話に聞いてはいたものの十二月二十五日の街を完全に舐めてかかっていた。おかげでクリスマス当日は閑散とした街を少しだけ散歩して、買い物もできずに帰宅してからは買い置きのパスタとビールで凌ぐという実に虚しい一日を過ごす羽目になった。ということは渡英して初のクリスマスを迎える独身日本人男性である谷口栄も同じような状況に陥る可能性は高いわけで、そこに長尾のつけ込む隙といえば人聞きが悪いが、同じ独身仲間として救いの手を差し伸べる余地はきっとある。
谷口とは二度ほどふたりきりで飲みに行ったことがある。とはいえそれは彼が赴任してきて日の浅い夏の話で、その後はなかなかタイミングが合わずにいる。一度など出張者接待の下見を理由に小洒落たレストランに行く約束までこぎつけたのに、あろうことか長尾の乗った列車が遅れたせいでキャンセルの憂き目にあった。
「せっかくの予約なので他に誰か誘う相手がいるのなら」というのは長尾としては社交辞令のつもりだったのに、真面目な谷口が真に受けて他の友人を誘って下見の任務を完遂してしまったのは計算外だった。しかも相手は大使館の同僚ではない誰か。
仕事関係以外でロンドンに友人がいるというのは初耳で心中穏やかではないが、幸いその後も谷口に恋人ができたという噂は耳にしていない。情報通の古村すら何も言ってはいないので、少なくとも今のところ最悪の事態には至っていないはずだ。
とはいえ、もちろん未だに長尾は谷口がノンケなのかお仲間なのか、もしくはどちらもいける口なのかについては判断できままでいる。あまりに爽やかで性的なにおいを感じさせない男はお仲間っぽくはないが、かといってノンケにしてもあまりに生活感がないように見える。今の長尾はむしろ、あえて色恋の空気を遠ざけている徹底的な隠れゲイである可能性を秘かに期待している。
だからこそ少しでも距離を縮めて谷口のことを知りたいと思う長尾にとっては、クリスマスというのは絶好の機会なのだ。何しろ店があいていないのだから、酒を飲むにしたって場所は自宅しかない。ちょっといい酒を買って、凝った手料理は引かれる危険性があるのでデリカテッセンでいい惣菜でも買っておいて。
その日に一気にどうのこうのというわけではなく、部屋で酒を飲んで映画でも観ているうちに打ち解けて、ただの同僚から一歩先の親しさへとステップアップしたい。それが長尾が心の中で温めている野望だった。
『そういえばクリスマス、暇だったら単身者同士うちで酒でも飲みませんか? ファミリーのイベントの日ってなんか侘しいじゃないですか。この間、英国陸軍の知人からいいウイスキーをもらったんですよ』
口の中で何度も練習した台詞をもう一度繰り返してから、勇気を出してドアに手をかけた。だが一歩踏み込んだそこには谷口の姿はない。いつも以上に整った机の上は妙に寂しくて、コートスタンドに上着もかかっていなかった。
「あれ?」
「どうかしましたか、長尾さん」
拍子抜けして間抜けな声を出す長尾に視線を向けるのは、谷口の秘書役を務めるトーマス。現地採用の若いスタッフだ。館内ではもっとも谷口と親しくしているが、結婚を考えている美人の恋人がいるので長尾のライバルではない。
「谷口さん、今日は休み?」
本当はひどく動揺しているのに、なんともない風を装って長尾は聞く。だがトーマスの返事は長尾を完全に落胆させるものだった。
「急用ができたとのことで本日帰国されました。年明けまで不在の予定ですので何かご用でしたら代わりに承りますけども」
「え? 帰国? いや……でも仕事じゃないから」
クリスマスに楽しく飲み会どころか帰国だなんて。練りに練ったクリスマスプランが一瞬にして水泡と消えてがっくりと肩を落とす長尾の姿が異様に映ったのか、トーマスは怪訝な顔をする。
「仕事以外で、ですか?」
問われて、まずいと思った。いくらここが本来所属する陸上自衛隊でないとはいえ、そしてトーマスが比較的その手の話に抵抗が薄いであろう進歩的なロンドナーだとしても、性的指向に気づかれることには不安が伴う。
「ほら、お互い家族もいないからここのクリスマスは暇だろ。だからうちで飯でもどうかと思ったんだけど、帰国してるならしょうがないな。また別の機会に誘うことにするよ」
さりげなく話を切り上げようとした長尾の顔をなぜかトーマスはじっと見つめたまま。そして言う。
「長尾さんって、谷口さんと飲みに行くことにずいぶんご執心ですね」
深い意味がないようにも聞こえるし含意でいっぱいであるようにも思える指摘に長尾は完全に硬直した。
「え……い、嫌だな。ご執心って大袈裟だな。独身仲間だからよろしくって小郡さんにも言われてるし、前にほら、食事の予定をドタキャンした借りもあるからさ」
ははは、と乾いた笑いが口からこぼれた。どうしよう、もしも長尾の内心にトーマスが気付いてしまったとして、そこから何が起こるだろう。まだ脈があるかもわからないうちに第三者から淡い恋心がばれてしまい警戒される悲劇だけは避けたい。
背中を冷や汗でびっしょり濡らす長尾にトーマスはなぜだか小さなため息を吐いた。
「律儀なのは結構ですけど、谷口さんはもしかしたら……これからずっと忙しいかもしれませんね。長尾さんと飲みに行く暇がないくらいに」
「ずっと……? って、年明けから仕事が詰まってるのか?」
「まあ、そんなものでしょうか。ただの私の想像なので、気にしないでください」
トーマスの意味ありげな物言いは気になるが、これ以上深追いすれば墓穴を掘りかねないので長尾はひとまず撤退することにする。
残念ながらクリスマスも年末年始も長尾はひとり。こうなれば来年に希望を託すしかない。いくら仕事が忙しくたって一日も飲みに行く暇もないということは考えづらいし、むしろ多忙であればあるほど息抜きは大切になるはずだ。
将来の陸上自衛隊幹部、戦略構築については専門的に学んだ身である。軍事戦略と恋愛戦略ではまったく理論が異なることには目をつぶり、長尾は潤沢な休暇中の時間を来年の谷口栄攻略プラン作成に費やすことを決めた。