7. 花の名を君に

 男が再び目を覚ましたのは明け方のこと。太もものあたりに擦りつけられる固い感触で起こされるのは、今の生活がはじまってからは珍しいことではない。何しろ腕の中で眠る少年はちょうど少年から青年へと心も体も変化をはじめる年頃だ。色恋や他人との性的な関係など自分とは縁遠いものと自覚していた男ですら、あの年齢の頃には時刻も状況も関係なく突然興奮しはじめる自らの下半身には手を焼いたことを覚えている。固く猛ったそこをなだめているところをもしも母親に見られようものならば、不潔だとか野蛮だとか暴言の限りを尽くされるであろうことはわかっていたから、ひとりになれる場所を探すのに必死だった。

 厚い筋肉に包まれた男の太ももに腰を押しつけてくる少年はまだうとうとと半ば夢の中にいる。しかし布越しに存在を伝えてくるそれは大きさこそ慎ましいが、熱くなり、しっかりと勃起していた。

「ん……んんっ……」

 小さな唇から悩ましい声が漏れる。

一体彼は今どんな夢を見ているのだろうか。夢の中で少年と一緒にいるのが自分であればいいのだが、もしそうでないのなら……。たかが夢にも関わらず男は胸の奥がチリチリと焼けるような不快感を覚える。だから、明け方の気持ち良いまどろみから引きずり出してしまうことは承知の上で少年の唇を自分の口で塞いだ。

 厚く大きな舌で歯列を割り、その奥にある小さく柔らかい舌を絡め取ったところで腕の中の体が大きく震える。

「起きたか。でも、いたずらをはじめたのはそっちだ」

 驚いて離れようとする腰をぐっと抱き寄せて快楽を求める場所を刺激してやると、まどろみと覚醒の狭間にいた少年は一気にこちら側の世界へ引き戻された。

「え、うそっ……ふ、あっ」

 反射的であろう拒むような動きを柔らかく封じ込めながら一気に衣類を剥ぎ細い下肢をむき出しにさせる。少し寒いかもしれないが、山の生活ではいつでも洗濯ができるわけではないので衣服は汚さないに越したことはない。

 朝の光に照らし出された少年のそこは、すでに何度も触れているにも関わらず初々しい桃色で、震える先端にはすでに露を滲ませはじめている。男は思わず触れることをためらいそこをじっと眺める。視線に晒されるうちに赤い割れ目が恥じらいながらうっすらと口を開き、こぼれ落ちた露がつうっと茎を伝い流れた。

 若い体は我慢がきかない。じっと見つめられる恥ずかしさや触れてもらえないもどかしさに焦れた少年は自らの右手を下腹部に持っていこうとするが、男はその手をぐっとつかんで止める。

「あ、何でっ」

 抗議の声は熱く掠れている。男は思わず本音を口にした。

「だって、きれいだ」

 だからもう少し眺めていたい、それは確かな感情だった。だが、それと同時にこうして目の前でふるふると待ちきれない様子を見せるものに手を触れれば、唇で触れれば少年がどんな声で鳴きどんな風に体をよじるのか――それをすでに知っている男自身、長い間お預けに耐えられる気はしない。

「んっ、ああっ」

 左右に開かせた脚の間に身を進めた男が桃色の屹立きつりつを口に含むと少年が甲高い声を上げ、同時に青くさい味が舌の上に広がる。成熟しきらないペニスの下で震える袋を大きな手で包み込み優しく揉みしだいている最中にはその奥にあるくぼみのことが気にならないわけではないが、男はその考えを頭から振り払うために自分の性器をしごきはじめた。

 その場所で繋がったことは一度だけある。しかも獣の姿で我を忘れた状態で。怯える体を貫いて血を流させた記憶は男の中にはまだ生々しく残っていて、あんなことは二度と繰り返さないと強く決意している。人間の姿に戻ってから触れ合った最初の数回は指や口唇での愛撫を施したものの、そこに触れればどうしても挿入への欲求が湧きあがる。だから男は最近では彼の後孔には触れないよう努めている。

 少年の息が荒くなり、喘ぎ声も短く掠れ切実さを増していく。やがて小さな叫び声と同時に彼は男の口の中で達した。

「昨日言っていた、アイクっていうのは君の名前?」

 行為の後の気だるい雰囲気の中、思い出したように少年が口を開く。実際は、前の日に男が行商人の男に名乗るのを聞いたときからずっと気にしていたのかもしれない。

「ああ……」

 男――アイクはうなずいた。人間の姿を取り戻すと同時に思い出した自分の名前を、そういえば少年に対しては一度も名乗ったことがなかった。

「どうして僕には教えてくれなかったの?」

 物心ついた頃からずっと【少年王】として生きてきた少年に名前がないであろうことには薄々感づいていたし、ふたりで会話を交わす分には二人称で足りる。特段の理由があるわけではなく、ただ、名前を確かめることも呼び合うことも自分たちには必要ないのだと思っていた。

「……必要ないものだし、特に気に入っているわけでもないからな」

 しかし不満そうな声を聞く限り、アイクの思惑とは異なり少年にとって「名前」はそれ自体が何か特別な意味を持っているようだった。少年は新しいおもちゃを手に入れた子どものように「アイク、アイク」と口の中で何度も言葉を弄んでから再びアイクを質問攻めにする。

「どういう意味なの?」

「俺の育った西の果てに、そう呼ばれている木があるんだ」

「誰がつけたの?」

「さあな。母親にはよく『おまえはアイクの木の下に捨てられていた』と言われたから、そういう意味なのかも知れないな」

その言葉に少年の表情がさっと青くなる。市井しせいの生活に疎い彼が言葉をまともに受け取ってしまったのだと気づいたアイクは慌てて否定した。

「いや、本当に捨て子だったわけじゃない。どこの種かはわからないが俺を産んだのは母親で間違いないと誰もが言っていた。親らしいことはろくにしないままで、数年前に死んだが」

「……ごめん」

 今度は死という単語に少年は反応した。繊細な彼は、辛いことを思い出させてしまったと罪の意識を感じているのか、気まずそうな表情で謝罪するとアイクの胸に頭を擦りつけてきた。もちろんアイクの側は謝られるようなことだとも思っていない。

 流行病はやりやまいに倒れた母親が高熱に浮かれ、体に浮かんだ赤斑が紫斑に変わってから息を引き取るまでは一週間程度しかかからなかった。彼女が完全に呼吸を止めたとき自分はどう感じただろう。冷たく当たってくる母親がいなくなって安堵しただろうか。それとも少しくらいは寂しく思っただろうか。そんなことすら、今のアイクはもう思い出せない。

「謝らなくていい。本当に過去のことは忘れてしまったんだ。俺は獣の姿になったときに生まれ変わって、おまえから新しい人生をもらった」

 今となっては西の果てで過ごした二十五年間は遙か遠いものとなった。そして、アイクは獣になってこの少年と出会う前の記憶など自分には必要ないものだと本気で思っている。西の果てにいたころの名前になど何の意味も見出さない。

「でも」と少年は小さくつぶやき、次にはっきりとした声で言い直す。

「でも良い名前だよ。僕は好きだ。捨ててしまうにはもったいない」

 その瞬間、アイクの中でカチリと音を立てて何かがはまった。

「良い名前?」

 そして、生まれてこの方ずっとしっくりこなかった名前が今はじめてこの体に寄り添い自分自身のものとなったのだと思った。同じ響きを持つ同じ言葉であるはずなのに、愛おしい相手からその名を呼ばれ、その響きを肯定されるだけでこうも簡単に何もかもが変わってしまうのか。

 この少年はやはり、不思議な力を持った王なのだ。もはや彼はこの国の【少年王】ではないが、少なくともアイクとの関係においては彼がすべてを与えてくれる絶対的な王であることは疑いようがない。

「すごく良い名前だと思うよ。だから、君をその名前で呼んでも構わない?」

「ああ……それは、もちろん」

 名前を呼ぶ許可を得た少年は満面の笑みを浮かべて、再び男の体にまとわりつきながら何度も繰り返し名前を呼び、そのたびアイクの胸は甘く疼いた。

「俺にはわからないが、人の名前を呼ぶのがそんなに楽しいか?」

「楽しいよ。だって僕は、これまで一度だって人の名前を呼ぶようなことはなかったから」

 確かに王宮での彼はひどく無口で、まれに周囲の人間に呼びかけるときも役職名を口にしていた。他人と私的な交わりを持つことがなく人の名を呼ぶことがない生活を送ってきた彼にとっては、こんな些細なことすら新鮮なのかもしれない。

 はしゃぐ少年を見ているうちに、もしかしたら彼は名前を持っていないことを気にしているのかもしれないと思いついた。生まれついての【少年王】として、王であること、神であること、この国そのものであることを求められていた彼に、個人としての名前など誰ひとりとして必要だとは考えていなかった。そのこと自体がこの少年にとっては今も心に刺さったままの悲しみなのではないのかと。

 次の瞬間、思わず小さな声で口にしていた。

「……リュシカ」

「何?」

「いや、何でもない」

 聞き返されると急に恥ずかしくなって思わず否定するが、賢く鋭い少年が気づかないはずがない。

「何でもなくないよ。それ、何のこと?」

 おそらくほとんど答えはわかっているだろうに、少年はどうしてもその答えをアイクの口から聞きたがった。だから、最終的にはアイクははにかみながら少年の額に口づけ、言った。

「おまえを、そう呼んではどうかと思って」

 それは、毎年春になるとアイクの木のそばに咲く薄紫色の美しく可憐な花の名前だった。