8. 聖なる欲望

 ちりちりと朝の光が顔を刺す気配にセスは目を覚ます。

 長い冬を越え短い春が過ぎ、この山深い集落にもそろそろ夏がやってこようとしている。日の出が早くなると自然と目覚めも早くなり、目が覚めればすぐにでも神の使いの小屋に行きたくなるが、セスは太陽の位置を見て思いとどまる。クシュナンはまだ眠っているかもしれない。

 集落に神の使いがやってきてからあっという間に季節が流れた。当初こそ食事を拒み心を閉ざしていたクシュナンは、セスが彼を水浴びに連れて行き傷の手当てをしてやった日から少しずつセスへの警戒を解くようになり、やがて穏やかで安定した日々が訪れた。

 セスは一日のうち数時間を神の使いであるクシュナンの元で過ごす。とはいえ口がきけないセスは彼に何か面白い話をしてやれるわけでもなく、食事の上げ下げと酌取しゃくとりの他はただじっと同じ部屋に座っているだけだ。クシュナンはときおり冗談交じりに「たまには歌でも歌って俺を楽しませてみろ」などと言い出してセスを戸惑わせるが、たいていはただ黙っている。彼がもともと無口な男なのか、それとも神の使いとは通常寡黙かもくなものなのか、セスにはわからない。

 スイは「最初のうちは、神の使いは我々を試すものだ」と言っていたが、数百の日々を過ごしたセスの見ている限りクシュナンの様子に大きな変化はない。もちろん口もきかず食事も拒んでいた頃と違って打ち解けた態度すら見せはするが、彼は常にごく普通の男のように振る舞い、啓示じみたことを口にすることもなければ背後に神の存在を感じさせるような特別な力を見せることもない。

 彼に他の人間と異なる部分があるとすれば──それは家族以外で唯一セスを白痴扱いせず普通に向き合ってくれる人間であるということだ。だからセスはクシュナンといると安らいだ気分になれる。

 本当にこの男が神の使いなのだろうか。ときにはそんな疑問もセスの頭に浮かぶが、そうでもなければこんな座敷牢におとなしく囚われてはいないだろう。。最初のうちこそ「なぜ俺はここに閉じ込められるのだ」「神の使いとはなんだ」と問い詰めてはセスを困らせていたクシュナンだが、いつしかそういった類の言葉は一切口にしなくなった。スイの言うとおりセスの忠誠を試していただけなのかもしれない。

 部屋の中に閉じ込められているせいでクシュナンの体はいくらか萎んだようにも見えるが、セスとてそう頑丈な方ではないからその気になればクシュナンがセスから力づくで鍵を奪い自由になることも可能だ。だが彼はそんな素振りも見せない。

 閉じ込められた男とそれを見張る男――異様な生活はいつしかふたりにとっての日常になった。

「おい、たまにはおまえも付き合え。ひとり酒はどうにも虚しい」

 その日のクシュナンはいつもになく饒舌だった。夕食どき、普段は黙って酌をさせるだけなのにセスにまで酒を勧めてくる。セスは酒が飲めないわけではないが、神の使いの前で、しかも彼のために用意した酒の相伴に預かるなどとはおそれ多い気がするので小さく首を振って断った。

「なぜだ?」

 普段のクシュナンは軽口でからかってくるときもセスが困惑した反応を見せるとすぐに引くのだが、今夜はどうにも様子がおかしい。

「飲めないわけではないんだろう」

 クシュナンはセスの手首を捕らえるとぐっと自らの胸に引き寄せ、酒で満たされたさかずきを口元に押し当ててきた。突然のことだったので杯はこつりと唇にぶつかり、勢い酒がこぼれてセスの着ている衣を濡らす。だが、そんなことどうだっていい。熱い――クシュナンの手も胸も、意外なほどの熱を持っていた。

 窓の外には大きな月。セスが最初に断崖でクシュナンを見つけたのとよく似たこんな晩には、決まってクシュナンは落ち着かない様子を見せたり、ふさぎ込んだり、饒舌じょうぜつになったりする。しかしこんなに執拗しつようにセスに絡んで来るのははじめてのことだった。

 思わぬ強引な態度にセスはどう反応すれば良いのかわからない。これ以上拒むのも神の使いに対して失礼である気がするし、だからといって彼の前で酒に酔って万が一乱れでもすれば、それはそれで取り返しがつかないことになりそうだ。困った顔で硬直したままでいると、クシュナンはセスの唇からあごへと垂れた酒のしずくを指で拭い、その指を赤い舌でめた。

 瞬間、自分自身の指が舐められたわけではないのに、セスの背筋をぞくりと奇妙な感触が走る。思わずセスはクシュナンの胸を手で押し、その体を遠ざけようとした。

「なんだ、つれない奴だな」

 クシュナンはふわりと笑った。普段は眼光鋭い青い目が酔いのせいか少し柔らかくなっている。その目で見つめられたセスは急に動悸が激しくなって、もしかしたら酒のにおいだけで自分までも酔ってしまったのではないかと不安になる。困ったように目を伏せるとそれ以上深追いはされないが、どうしようもない居心地の悪さを感じて酒の瓶が空になるとセスは逃げるように小屋を後にした。小走りでまっ暗い森を走り、屋敷に帰り着いてもまだ早鐘のように胸が鳴っていた。

 その晩以降、自分でも理由がわからないままにセスはクシュナンと目を合わせることができなくなった。しかしクシュナンは不自然な反応を見せるセスを面白がっているかのようにふいに顔を近づけたり触れようとしたりすることが増え、その真意がわからないセスは戸惑うばかりだ。

 決定的な出来事が訪れたのは、次の水浴びのときだった。いつもどおりクシュナンは滝壺に身を浸し、セスは川縁かわべりに座って彼が水浴びを終えるのを待っていた。目を合わせることすらできないのだから、肌を見ればもっと動揺してしまいそうな気がする。膝を立てて座ってうつむいていると、突然腕を強く引かれた。

 小屋の外を出歩くときにはクシュナンの足首から伸びる鎖をセスの腕輪に南京錠でくくりつけるようにしている。鎖にはある程度動き回れるだけの長さがあるので普段は引っ張られることはない。油断していたセスは踏みとどまることもできず、バランスを崩して水の中に落ち込んだ。

 何が起きたのかわからないまま慌てて水中から顔を上げると、クシュナンがいたずらをした少年のような顔で笑い転げていた。

「たまにはセス、おまえも水浴びくらい一緒にどうだ」

 そんなことを言われたからといってどうすればいいのかわからない。そもそも小屋に囲われっぱなしのクシュナンと違ってセスは普段から自由に水浴びをしているから、ここで一緒に水に入る必要などない。全身ずぶ濡れのセスはただ困った顔で立ちすくむしかなかった。

 ふと視線を感じてはっと自分の体を見ると、ついさっきまで笑っていたクシュナンが真顔でセスを見つめていた。セスの――水に濡れて張り付いた服が透けて、その肌や、胸の薄赤いささやかな突起すらあらわになっているのを、ただじっと見つめていた。ひどく恥ずかしくて、セスは顔に熱が集まるのを感じた。そして困り果てて視線を下げたところで目の前の男の下半身が猛っていることに気づいてしまった。もちろん、その視線の先にセスの姿を捕らえたままで。

 どうやってその場をしのいで、どうやってクシュナンを小屋に送り届けたのかは覚えていない。ずぶ濡れになって戻ってきた弟の姿に目を丸くしたスイが声をかけてきて、ようやくセスは正気を取り戻した。

「どうした? びしょ濡れじゃないか」

 そう言われるまで自分が水を滴らせながら屋敷の廊下を歩いていることにすら気づかなかった。出かけるときに玄関に置いていた石版を取り上げ、何と書くか迷う。

 ――薬草を探すのに夢中で、水に落ちたんだ。

 思わず嘘を書いた。これまで兄に嘘をついたことなど一度もなかったのに。

 人と会話できないことを埋めようとするかのようにセスは幼い頃から書物を読むことが好きで、手当たり次第読んでいるうちに薬効のある草木に詳しくなった。セスがときおり薬草を探しに森をさまよっていることはスイも知っていて、だから言い訳が不審がられることはない。とはいえ兄として弟の様子がおかしいことは一目でわかるのだろう、スイは自室にセスを引きずり込んだ。

「セス、おまえ……大丈夫か、疲れていないか? 神の使いの世話役は精神を消耗するだろう」

 その言葉にセスはうなだれた。ただ世話をするだけならばたいしたことではない。しかし最近のクシュナンの奇妙な振る舞いや、今日目にした「あれ」。彼が何らかのかたちで欲求不満を抱えていることは確からしく、しかしセスにはどうしてやればいいのか想像もつかない。

 セスが押し黙っているので、スイは「何か心配事があれば何でも言え」と背中を叩いた。セスは勇気を出して石灰を手に取る。

 ――僕にはよくわからないけれど、神の使いは夜の相手を求めているのかもしれない。

 それをスイに伝えることが正しいことかはわからない。聖なる者であるはずの神の使いがそんな世俗的な欲望を抱くものなのかもわからない。ただ、セスの何百倍も世慣れていて頼りになる兄であればよっぽどましな解決策を見つけてくれるに違いないと思った。

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