セスはそのまま眠ることができず夜を越え、朝になると部屋の前で兄を待ち構えた。
「……セス」
兄は思い詰めたような顔をして部屋の前に座り込んでいたセスの姿を認めると渋い顔をする。伊達に長い時間を一緒に過ごした訳ではない。セスが昨晩の騒動に気づいていることも、今ここにいる理由も、スイは何もかもお見通しだ。
それでもセスは一応、首から提げた石板に書いた「僕も行く」という文字を兄に向けて示してみせる。あの大男と少年に対してスイがどういう説明をするのかをこの目で確かめたかった。暴力で連れてきた相手と向き合うことは気分のいいものではないが、きっかけを作ったのが他ならぬ自分である以上、それは自らに課された義務であるような気がしていた。
そして何より、あの少年を「神の使い」であるクシュナンのもとへ連れて行く役目を負うのはセスなのだ。経緯くらいは把握しておくべきだろう。
「どうしてもか?」
セスがうなずくとスイはひとつため息を吐く。だが、それ以上弟を説得しようとはしなかった。
檻のある小屋まで行くのかと思ったが、スイは客間へ向かう。後について部屋に入ると、そこには縛られたままのあの美しい少年と、彼を連れてくる役割を任されたらしきカイがいた。
「カイ、ありがとう。後はこっちで」
スイは少年を横目でちらりと見ると、カイに下がるように言った。
「……セスも一緒ですか?」
「ああ、セスは神の使いの世話役だからな」
カイは、スイと一緒にセスが部屋に入ってきたことに対して明らかに不満そうな表情を見せた。彼からすれば、白痴だと思っている相手が長の家系の人間だというだけで重用されているようで面白くないのだろう。しかし、スイはあっさりとセスの同席を肯定してしまう。やがてこの集落を治めることになるスイに明らかに反抗することもできず、カイは横目でセスをにらみつけるとそのまま出て行った。
あの美しい少年は憔悴した顔で座っていた。少し目が赤いのはセスと同様あのままずっと眠れなかったからだろう。ここまで歩かせてきたのか脚の縄はほどかれているが、まだ両腕ごと胴はぐるぐるに巻かれている。縛られているせいで血の巡りが止められ手先が白くむくんでいるのを見て不憫になったが、ほどいてやろうと言い出せる雰囲気ではなかった。
少年はセスの顔を見るとはっとしたような顔をした。昨晩小屋にやってきた人間の顔を覚えている程度には賢いらしい。夜中にセスがこっそり彼らのいる小屋を訪れたことがスイにばれたら叱られるだろうか……ちらりと頭をよぎるが、少年はきゅっと唇を引き結んだまま何も言わなかった。
「おい、おまえともう一人の男はどこから来たんだ」
スイが遠慮ない口調で少年に声をかけた。セスや家族に話しかけるときとも集落の人間に話しかけるときとも違う厳しい口調だった。
少年は少しためらい、それから口を開く。
「……西の果て」
「どこへ行くつもりだった」
渋い顔のままスイが重ねて訊ねると、少年は考え込みながらぽつりぽつりと返事をする。
「干ばつで食べていけなくなったから、新しい場所を探しに行くところだった」
「雨が降ったのに、西へは戻らずに?」
「……もともと貧しい場所だったから、ここまで来たならもっと先へ行こうと……」
この少年は嘘が下手だ。セスだって決して嘘がうまいわけではないが、答えに困れば口をきけないことを理由に逃れることができる。だが、この少年は嘘が下手で、口を聞くことができる分かえって取り繕いようがない。
セスですら彼が西の果てから干ばつを避けてきたという話は嘘だと確信した。それは少年と大男が旅の目的や行き先を偽らねばならない訳ありの身分で――要するに「神の使いへの捧げ物」にあつらえ向きだということを意味する。スイも全く同じことを考えたに違いない。嬉しそうに少し表情を緩めて少年を諭しにかかる。
「心配するな、おまえのことも同行者のことも傷つけるつもりはない」
「もう十分傷ついてるよ。さらわれて縛り上げられて、しかもアイクは……僕と一緒にいた男はまだ目を覚ましていない」
だが、気丈な少年は年も上で長の後継ぎらしい風格を備えたスイ相手に一歩も引かずにらみ返す。疲れ果てた顔色にも関わらず黒い瞳は物怖じしない。
「大丈夫だ。あの毒針は眠らせるだけだ。もうひとりの男もじき目を覚ますだろう。難しいことはない。おまえたちはほんのしばらくこの集落に留まり、我々に力を貸してくれればいいんだ。時期がくれば旅の支度を調え送り出してやる」
スイの言葉に、少年はそれでも不安そうな表情を崩さなかった。セスが昨晩あの大男はじき目覚めると言ったにも関わらず、朝になっても眠ったまま。不安も限界まで高まっているのかもしれない。それでも拘束された自分たちの立場が弱いことくらいは理解しているようで、彼はスイに問いかける。
「力を貸すとは……こんな、無理やり連れてこないといけないような?」
「端的に言うが、今この集落には山の神の使いが降臨している」
そして、スイは率直にありのままを少年に告げた。五年に一度、この集落に山の神の使いが降臨すること。一年のあいだ使いを十分にもてなし神のもとへ返すことで山の平穏が保たれていること。そして、神の使いを完全に満足させるためには今どうしても、彼の欲望を鎮める相手が必要であること。
「だったら、あなたたちの集落の中から選べばいいのでは? 神の使いとやらをもてなすのは僕じゃない。あなたたちの責務なのでしょう?」
「それはできない」
少年の率直な問いに、スイは即答した。
「神をもてなす側の我々は、世話役以外は誰ひとり祭りの日まで使いの姿を見ることも、触れることもできない。それが決まりだ」
「じゃあ、その世話役が夜の相手もすればいいじゃないか」
その言葉にセスはぎょっとした。もちろんスイも同じくらい驚いた顔をした。セスには神の使いをもてなすための詳細な決まりごとはわからない。だが、まさか自分がクシュナンの夜の相手をするなどとは想像だにしなかった。
スイの驚きようからしても、少年が口にしているのはこの集落の常識からはかけ離れた発想なのだろう。スイは苛立ったように、今日はじめて声を荒げた。
「だめだ! いくら世話役でも閨の世話はこの集落の人間では務まらないのだ」
しかし、ただの通りすがりである少年が突然見知らぬ集落のために体を捧げろといわれて納得するとはセスにも思えない。実際、彼は不服そうな態度を崩そうとはしない。
「だから、見知らぬ僕をこの集落のための生贄にするというんですか?」
「少年よ、口のききかたには気をつけろ。生贄などではない。神の使いは聖なるお方なのだから、その相手ができることはむしろ光栄だと思って欲しい。使いに十分なもてなしをしなければ山には悪しきことが起こる。それはこの集落だけの問題ではないのだ」
スイの言葉に少年の瞳がゆらいだ。一体何が少年の心に刺さったのかはわからないが反抗的な態度が急に消え去り、どこか寂しそうな、悲しそうな表情を浮かべ口ごもる。
「でも僕は、そんな……」
「悪いが、何を言ったところで決定は覆らん。恨むなら昨晩この山で無防備に野営をしていた自分たちを恨め。もう話は十分だ。セス、こいつを使いのところへ連れて行け」
苛立ったように言い捨てるとスイは部屋を出て行き、後にはセスと少年が取り残された。気まずい沈黙が場を覆いやがて少年が口を開く。
「セスっていうんだね。君が神の使いの世話役なの?」
セスはうなずいた。少年は探るようにセスの様子を眺めていたが、首から提げた石板と真っ白な指先に事情を察したらしい。
「もしかして君、声が?」
セスは再びうなずいた。そして少年に隣り合って座ると石板を首から下ろす。
――君たちには申し訳ないと思うが、神の使いを完璧にもてなすことは、僕たちの集落にとってはとても大切な勤めなんだ。
セスも決して大柄な方ではないが、いざ隣り合って見ると少年はセスよりずいぶん小柄で華奢だ。とはいえ夜の行為ができないほど幼いわけではない。年の頃は十五、六といった頃だろうか。早熟なこの集落ではセスのような例外を除けば、その年齢の少年少女は大抵色事を覚えている。彼をクシュナンに差し出すことは──セスの心情的な抵抗を除けば無理も不思議もないことだ。
セスの兄への進言が彼らがさらわれる理由になったとは思ってもいないのだろう、少年はスイに対して親近感を抱いているらしく気安い様子で言い募る。
「うん、そういう事情や信仰がある人たちがいるっていうのは、わかるよ。でも僕は……」
――君の名前は?
石板にそう書き付けてからセスは内心で後悔した。名前など知れば、この少年……ただの神への捧げ物でしかないはずの少年と人間的な交流が生まれてしまう。それは当然セスの仕事がやりづらくなることを意味する。
わかっているのに、セスは彼の名を聞かずにはいられなかった。
「僕は、リュシカっていうんだ」
――良い名前だ。
セスがそう書くと少年は花がほころぶように、場違いなほど嬉しそうに笑った。
「うん。アイクがつけてくれたんだ」