13. 目覚める獣

 ひどく気分の悪い目覚めだった。頭が痛み、体も思うように動かない。しかもずいぶん長く眠っていたような気がして――アイクは重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。

 にじんだ視界が少しずつくっきりと輪郭りんかくをあらわにし、最初に目に入ったのは心配そうに自分をのぞきこむリュシカの姿だった。

「アイク!」

 聴き慣れた声で名前を呼ばれ、甘い感覚が胸の奥から全身にじわりと広がる。それと同時に意識を失う直前の記憶がよみがえった。

 山の中で野営していたところ、突然見知らぬ男たちに囲まれて武器を突きつけられたこと。その男たちは王都からの追っ手ではないものの、明らかにリュシカを捉えようとしようとしていたこと。そして、突然首筋に痛みを感じてアイクはそのまま意識を失ってしまったこと。

 首筋に手をやる。何も刺さっていないようだが、触れた場所にはわずかな痛みがあるので吹き矢にやられたのかもしれない。絶対に守ると決めたそばから昏倒こんとうするなどあまりにも情けないことだ。しかし、あの男たちが連れ去ろうとしていたはずのリュシカは目の前にいてアイクの名を呼んでいるのだから、もしかしたらあれも悪い夢か何かだったのだろうか。

「アイク。大丈夫? 気分は?」

「……ああ。うん、大丈夫だ」

 リュシカが傷ついた様子もなく目の前にいる。それだけでひとまずは安心だ。ゆっくりと視線を左右にさまよわせると、まず高い天井が目に入る。そして自分の体が柔らかい布団の上に寝かされていることに気づいた。あれが夢なのだとすれば今アイクは森の中、野外で眠っているはずだ。一体自分たちの身に何が起きて、今いるここはどこなのだろう。

「ここは?」

 そう訊ねると、リュシカは考え込むように軽く眉をひそめてちらりと背後に目をやった。アイクはそこではじめて、リュシカの後ろに座っている男の存在に気づく。慌てて上半身を起こすときに左半身に奇妙な感覚があったが、動揺のあまり注意は払わない。

「なんだおまえは!」

 それは見たことのない若い男だった。細面のおとなしそうな男はリュシカより年上でアイクよりは年下に見えた。あのとき武器を手に囲んできた中にこの顔があったかどうかは記憶にない。

 その男はアイクににらみつけられると居心地悪そうに視線をさまよわせるが、名乗ろうともせず沈黙を続ける。その態度はアイクにはふてぶてしく感じられ思わず声を荒げてしまう。

「おい、おまえは誰だと聞いて……」

「やめてアイク! セスは口をきくことができないんだ」

 怒りのあまり男を怒鳴りつけようとするアイクを、リュシカが制止した。その言葉に、目の前にいるセスと呼ばれた男がわざと沈黙でアイクを煽っているわけではなく、名乗ろうにも声を出すことができないのだと知る。よくよく見ればセスは首から重そうな石板をぶら下げている。まるで何かの刑罰を受けているようにも見えるが、うっすら白く汚れているのをみると、あれに文字を書き付けることで周囲と意思疎通をしているのかもしれない。だが読み書きが一切できないアイクにとってはそんなもの、何の意味もなかった。

「リュシカ、ここはどこだ。あのとき俺たちを襲った奴らに連れてこられたのか。そいつもあいつらの仲間なのか」

 興奮冷めやらぬアイクの続けざまの質問にリュシカは「落ち着いて、アイク。怒らなくても大丈夫だから」とささやき腕をさすってくる。リュシカがそう言うのならば、少なくともここには差し迫った危険はないのだろうか。納得はいかないがアイクはいったんは口をつぐむ。

 するとリュシカは背後のセスに向かい、言った。

「怯えないでセス。アイクは乱暴な人間じゃない。ちょっと驚いているだけなんだ」

 その言葉にふっとアイクの心に影が差した。リュシカがこんなにくだけた様子で自分以外の誰かに話しかけるなんて。一体自分が眠りに落ちている間に何が起こり、このセスという男とリュシカはどのような関係なのだろうか。

 リュシカはかつて孤独な《少年王》として過ごした王宮ではまともに言葉を交わす相手もおらず、はじめて心許した相手が当時獣に姿を変えられていたアイクだった。そのリュシカを連れて二人きりで王都を逃げ出す中で、アイクはいつの間にか、リュシカは自分だけのもので、自分以外に心を許すことなどないのだと思い込んでいた。しかしそんな甘い妄想は目の前で簡単に崩れ去る。

 表情を失い硬直したアイクに向かいリュシカはぎこちなく笑いかける。そして、目を覚ましたばかりで動揺しているアイクに何から説明すべきか考え込むように薔薇色の唇を引き結んだ。

「……俺は大丈夫だ。何があったのか、ここはどこなのか、教えてくれ」

「うん」

 リュシカが不安な顔をしている。そして、それは紛れもなく不安に駆られて荒っぽい態度をとるアイクのせいだ。それに気づいたアイクができるだけ平静を装って低い声で告げると、落ち着いた様子にほっとしたようにリュシカは口を開いた。

 この山奥の集落の人々は、とある目的のために外部の人間の助けを求めていた。そして、ちょうど見かけたアイクとリュシカを連れてくるため麻酔薬のついた吹き矢を使った。その薬はただ人を眠らせるだけのもので彼らには二人を傷つけるつもりはなかった。そして──検分の結果アイクとリュシカは彼らの目的を満たす人間ではなかったから、今では自由の身になった。

「いろいろと誤解があったみたいで最初は少し手荒なこともされたけど、この通り縛られてもいないし、もう大丈夫だよ」

 しかし、いくら大丈夫だと言われても、突然人を襲ってさらうような人々を簡単に信じることなどできない。そもそも一体彼らはなぜ自分とリュシカをここに連れてきたのだろう。誤解とは、何なのだろう。

「そんな話じゃ納得できない。誤解って、そもそもの目的は何だったんだ」

「えっと、それは……」

 リュシカは少し口ごもったが、それを隠したままではアイクが決して納得しないことも察したのだろう。言いづらそうに切り出す。

「この集落で迎えている『神の使い』をもてなすために……寝床で相手をする人間を必要としていたんだって」

「なんだと?」

「アイク、危ない!」

 驚きと再び湧き上がる怒りに上掛けをはねのけて立ち上がろうとした。しかしアイクの上体はぐらりと揺れて、倒れそうになったところをリュシカの細い腕でかろうじて支えられる。目覚めてすぐは頭がもうろうとしていたし、その後は怒りと興奮で気づかなかったが、左脚に違和感があった。完全に感覚がないわけではないが、芯が痺れたような感じがあり思いどおりに動いてくれない。

「アイク?」

「……脚が、左脚がおかしい。痺れている」

 その言葉を聞くとさっとリュシカの顔は蒼白になり、思いのほか厳しい表情でセスを振り返った。

「セス! 麻酔で眠るだけだって、目覚めたら元どおりって言ったじゃないか。あれは嘘だったのか?」

 激しい叱責にセスは困ったように石板に視線を落とす。そしてそこに何か書き付けリュシカに示して見せた。リュシカはそれでも納得せず「でも、話が違う」「そのうちって、いつだよ」などと言い募っている。先ほどアイクをいさめた張本人とは思えない激しい剣幕に、逆にアイクは責められるセスのことを気の毒に思うくらいだった。

「そいつは、何を言っているんだ?」

 アイクは文字が読めないから、セスが何を伝えようとしているかを知るにはリュシカに頼るしかない。するとリュシカは言いづらそうに口を開いた。

「もしかしたら吹き矢の当たった場所が悪くて痺れが出たのかもしれないって言ってる。麻痺に効く薬草を知っているから治療するし、しばらく静養すれば良くなるはずだって。許して欲しいって謝ってる」

「……しばらくって」

 例え悪意がなかろうがなんだろうが、自分とリュシカを攻撃し捕らえた集落からなどすぐにでも立ち去りたいに決まっている。しかし、脚がこんな状態では険しい山道を行くことなどできない。アイクは頭を抱えた。

 セスはうろたえたようにアイクを見つめ、さらに石板に何かを書き付ける。リュシカが続けて文字を読んだ。

「脚が癒えれば、兄がきちんと旅の支度を調えてあなたたちを送り出すはずだって」

 心底申し訳なさそうな顔で消沈しているセスを見ていると、あまりひどく責めるのも哀れに思えてくる。一方でアイクは、リュシカが見知らぬ男をこうまで懸命にかばおうとすることに漠然とした不安を覚えていた。

 この集落の人間が自分とリュシカに行った仕打ちに納得はいっていない。リュシカが自分以外の人間と会話を交わすところも見たくない。だが、実際に動きづらい脚を抱えている以上、アイクにはセスの申し出を断る選択肢は残されていなかった。