18. 誰にも渡したくない

 リュシカが集落のおきてどおりに明日の夜「契りの儀式」をすると約束したことにより、それ以上スイを責め立てる理由をなくしたカイたちは不承不承去って行った。

「おい、どういうつもりだ。儀式をやるだなんて」

 若い男たちの姿が消えた途端に顔色を変えてリュシカをとがめたのはスイだった。その剣幕に押され、同じことを言ってやろうと思っていたアイクは開きかけた口をつぐむ。

「どういうつもりって……あの人の言うことにも一理あると思ったし、ああでも言わないと場が収まらなかっただろう?」

 リュシカとしては、何よりカイの追及に押され劣勢に立たされていたスイへの助け舟のつもりで口にした言葉だったのだろう。そのスイから叱責されるのは納得がいかない様子で言い返す。スイはそこでようやくリュシカの気持ちを察したのか表情を緩めると、アイクとリュシカの顔を順に眺めてから今度は困ったようにため息を吐いた。

「私を庇おうとした気持ちはありがたいが、だからってあんな出任せを。君たちは『契りの儀式』が何かを知っているのか?」

「知らない……」

 リュシカがつぶやき、アイクも首を縦に振って同意する。それを見たスイはさっきよりさらに大きなため息を吐いて、ひどい頭痛を堪えるときのようにこめかみを指で押さえた。

「ここでの伝統的な『契りの儀式』は、決まった相手がいることを人々に示し認めさせるためのもので……つまり、広場で人々の面前で交わるのだ。衝立ついたても何もない状態だから、誤魔化しはきかないぞ。君たちにはそんなことができるのか」

 人々の面前で交わる――アイクは唖然として言葉を失った。リュシカもぽかんとスイの渋い顔を眺めている。

「今さらあれは嘘だったとか、やはり止めたいとか言い出したところでカイはしつこい男だから納得しないぞ。奴らが再びここに押し入ったとして私に止めることはできない。我々の問題に巻き込んでしまったことは申し訳ないが、よそ者である君たちの安全より集落の統率の方が私には大切なんだ」

 スイは、目の前の不釣り合いな二人がリュシカの言うような「愛し合っている」関係だとは夢にも思っていないようだ。だから、その場凌ぎで「契りの儀式」をやると言ってしまったものの、二人には実際に人前で交わることなどできっこないのだと頭を抱えているのだ。

 だが、その気持ちはアイクだって同じだ。

 アイクにとっても、リュシカがさっき口にした言葉はただの出任せであるとしか思えない。アイク自身はリュシカを何にも代え難い大切な存在で、自分ひとりのものにしてしまいたくて、これこそが愛という感情なのだと確信している。だが、リュシカは――。

 危険な状況から救ってくれたアイクに恩義や信頼は感じているだろうが、その気持ちが愛であるとは思えない。だって。こんなにも美しく聡明な少年が、こんなにも醜く不器用な男を愛するはずがない。今までは他に誰もいない場所で、熱の散らし方を知らない体を持て余しているからこそリュシカはアイクに身を委ねてきた。しかし、いつまでもそんな幸運は続かないのだ。その証拠に、今日アイクはリュシカに触れようとして拒まれたではないか。

「少し、考えさせてくれ」

 アイクにはそれしか言えなかった。

 人前でリュシカを抱くことなどできるはずもない。だからと言ってここに留まれば、カイという男と仲間たちはこの集落の慣習とやらを盾にリュシカを襲いにくるだろう。できることならば今夜のうちにこの集落を逃げ出したい。不自由な半身を引きずってどこまで行けるかはわからないが、この土地でリュシカが乱暴な男たちに辱められるのを止めることもできずに見ているのに比べればずっとましだ。

 しかし、リュシカはさっきから繋いだままでいたアイクの手の感触を確かめるようにぎゅっと手のひらに力を込めて、スイに真っ正面から挑んだ。

「できるよ。やる。僕の言ったことは出任せなんかじゃないから」

「リュシカ……」

 その言葉に一番驚いたのはアイクだ。リュシカは自分の言っていることの意味がわかっているのだろうか。それとも世間知らずな子どもだから、信頼と愛情を取り違えたまま意地を張っているのか。

「驚いたな。親子や兄弟には見えなかったが、まさか……」

 スイも明らかに動揺していたが、リュシカの物言いがあまりに自信に満ちていたためか、それ以上疑いの言葉を連ねることはしなかった。彼にとってはリュシカが内容を知った上で契りの儀式をやるというのに文句などあるはずもない。約束が守られればカイは納得せざるを得ないし、そうすればスイはとりあえずアイクとリュシカを安全に滞在させるというセスへの約束を守ることができるのだ。あのカイという男のことはまったく信用がならないが、「スイは弟に甘い」という彼の言葉だけは事実であるようだ。

「では、明日の晩に向けて準備を進めさせる」

 そう言ってスイも小屋を出て行くと、後には手を握り合ったアイクとリュシカだけが残される。

 アイクはまだ信じられない気持ちでいた。リュシカは本当に明日、「契りの儀式」をやるつ持ちでいるのだろうか。

「手が……びしょびしょだ。緊張していたから」

 つなぎっぱなしだった手を離し、リュシカが小さく笑った。小さな手が汗でびっしょりになっていることにはアイクも気づいていなかった。もっともその汗の半分はアイクのものかもしれない。そのくらいアイクも緊張していた。

「リュシカ、なんであんな約束……」

 アイクの咎めるような言葉は途中で遮られる。

「君は、嫌だった?」

 少年の顔からは一瞬で微笑みが消え、代わりに浮かび上がってきたのは意外なほど真剣な、大人びた表情だった。リュシカは横たわったままのアイクに半ばのしかかるようにして顔を寄せると、もう一度繰り返す。

「君は、僕と儀式をするのは嫌なの?」

 アイクは自分の喉がごくりと音を鳴らすのを聞いた。

 白い頬は出会った頃より少しシャープになった。あどけなさを残しつつも、思慮深さと強い意志が宿る両の瞳がアイクの灰色の目を覗きこむ。

「アイク、君はいつもそうだ。僕のことを何も知らない馬鹿な子どもだと思っている。僕のことを信用していない」

「そんなことは……」

「あるよ。君が何を不安に思っているのかはわからないけど、疑うような顔で見られれば僕だって傷つく。君は自分を醜いと思っているのかもしれないけど、僕はそんな風に感じたことはない。黒い泥だらけの獣の君だって、背が高くて火を起こすのがうまくて森のことをよく知っている今の君だって、僕にとっては美しくて大切で、誰にも渡したくない相手だ」

 アイクは額に柔らかなものが触れるのを感じた。リュシカの淡い黄金の前髪がさらりと肌を撫でる。それと同時に首筋に細い指が触れ、軽い力でかりかりと引っ掻いてくる。獣の姿をしていた頃にそこに触れられると気持ちよくて安心して、すぐに眠くなった。どうやら人間の姿になってもそこが弱いのは同じであるらしい。目を閉じれば甘い小さな唇がそっと降りてきて、アイクの無骨な唇を小鳥のようについばみはじめた。

 誰にも渡したくない。アイクはその言葉を胸の中で反芻する。自分の体の中で渦巻いているときにはあんなにも醜くどろどろとした凶暴な感情が、言葉が、なぜリュシカから向けられるのであればこうも甘く、喜ばしいのだろう。

「リュシカ、今日はひどい態度を取った。おまえを守れず危険な目に遭わせ、しかもこんな体になった自分が許せなかった。それに……おまえが俺以外の人間と親しげにするのに苛立ってしまって……」

 存分に唇を吸いあってから、ようやくアイクはぎこちない謝罪を口にした。すると、アイクの嫉妬に今はじめて気づいたように、リュシカはきょとんと目を丸くした。

「アイク以外の人間って……もしかしたら、セス?」

「ああ」

 ばれていないのならば、いっそ黙っていたままでも良かったかもしれない。嫉妬深くて心が狭い人間だと落胆されただろうか。

「セスは優しくていい人だし、それだけだ」

 想定どおりの答えだ。しかもリュシカはセスは神の使いであるクシュナンという男の関係を気にかけていた。アイクは自分の勘違いが恥ずかしくて、耳まで赤くなりながら謝罪の言葉を繰り返す。

「ごめん。わかってる。いや、わかった。もう勘ぐったりしない」

 するとリュシカは、そんなアイクの姿を面白がっているかのようにひとしきり笑ってから、言った。

「……じゃあ、お互い様だから僕もひとつ告白するよ」

 そしてアイクの耳に唇を寄せると、照れ臭そうに小さな声で囁いた。

「セスが噛んで作った薬を使って、君の脚に長い間触れて治療するのが嫌だった。だから次からは自分でやりたいって言ったんだ」

 そう言って耳元に口付けてくる唇は、燃えるように熱かった。

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