22. 知られる怖さ

 湧き上がるのは単純な喜びで、セスはすぐさまクシュナンに向けて首を縦に振ってみせた。この男が自分と対話したいと思ってくれていることはただ嬉しかった。

 しかし帰り道で思考が冷静になるに従って、喜びは得体の知れない不安に変わる。もしも会話が交わせるようになったら、クシュナンと自分はどうなるのだろう。神の使いとその世話役という関係そのものが変わるはずはない。それに兄が言っていたことが本当であるならば、クシュナンはどのみちあとひと月も経てば山の神のもとへ帰ってしまうのだ。そんな男と今更意思の疎通ができるようになったとして、何の意味があるというのだろう。

 何よりセスは恐ろしかった。クシュナンはなぜ今になってセスの言葉を理解したいなどと言い出したのだろう。セスは口から言葉を発することこそできないが、クシュナンの話すことを聞き理解することはできる。もちろん狭い離れに足かせをつけて閉じ込めているし、様々な制約はあるが、できるだけクシュナンに不便がないよう、彼が快適に過ごせるよう配慮してきたつもりでいる。

 セスが神の使いの世話役の務めを果たすためには、彼の言うことを理解した証として首を縦に振ることができれさえすれば十分に足りる。何しろ自分はクシュナンの友人でも家族でもないのだから。

 もしクシュナンがセスの言葉を――白くひび割れた醜い指先で石板に綴る文字を理解できるようになったとして、彼は一体セスに何を求めるつもりでいるのだろう。どんな言葉を、情報を引き出したがっているのだろうか。

 いや、クシュナンは神の使いなのだから全てを理解しているはずだ。今さらこの集落のことや祭についてセスから何かを聞き出す必要なんてない。でも、だったらどうして。

 ただの気まぐれ。一方的に話しかけるのに飽きてしまったから暇を潰すため。セスの生活が特別なだけで、普通ひとは退屈を紛らわすために他愛のない会話を交わすのだ。それに深い意味はない。ただ言葉を理解したいと言われただけでこんなにも悩んでしまうこと自体がおかしなことであるのだろう。

 セスは月の昇った空をぼんやりと眺める。いつの間にか屋敷のすぐそばまで戻ってきていたが、セスは家に戻る気分になれずそのまま足を進める。

 リュシカとアイクの契りの儀式であんなにも盛り上がった昨晩が嘘のように広場も閑散として静まり返っている。たくさんの人の前であんなにも乱れて、しかし汗や体液にまみれて睦み合う二人は幸せそうに見えた。

 赤の他人があんな風に親密になることをセスはいつだって不思議に思う。何しろ恋人どころか、生まれてこれまで友人と呼べる相手を持ったこともないまま大人になったのだ。

 そういえば、自分の口から音が出ないことに気づいたのはいつだったろうか。他の人間が口をパクパクと開閉するとそこからはとりどりの音が出る。物心がついた頃にはその音が意味を持つことを知っていて、内容を理解することができた。不思議なのはどうして自分にだけそれができないのか、ということだった。

 幼い頃は家族もセスが声を手に入れることをあきらめていなかったから、長老から声を出すための厳しい訓練を受けたこともあった。腹やら喉やらに力を入れるよう厳しく指導され、最終的には幼い喉が切れてセスが血を吐き、それを見て驚いたスイによって止めさせられた。旅のまじない師から喉に効くという怪しげな薬を、高い金を払って調合してもらったこともあった。もちろん効果はなかった。

 やがて家族は下の息子に発声させることをあきらめ、代わりに石版と石灰と書物を与えて文字を教えてくれた。文字を覚えたセスは初めて身振り手振り以外で詳細に自分の意思や言葉を他人に伝える方法を手に入れたが、ここでは文字を読める人間は限られている。結果、いまだに人々はセスのことを白痴だと思っていた。

 セスがコミュニケーションをとる相手は家族くらいのものだが、それも遠慮なしにとはいかない。言葉でやりとりするのに比べれば手間のかかる筆談で、おさの家の仕事で忙しい家族を呼び止めるのは気が咎める。結局普段は簡単なジェスチャーで最低限の意思の疎通をするだけで済ませてしまう。

 そんな自分に、クシュナンは何を聞きたいのだろうか。そして自分は、クシュナンに何か伝えることを持っているのだろうか。

「……セス?」

 突然背後から名前を呼ばれて、はっとして振り返るとそこにはリュシカがいた。そこでセスは、自分がぼんやりとしたままリュシカたちの家の近くまで歩いてきていたことに気づく。どのみちここには来なければいけなかった。クシュナンに、明日からリュシカを連れて行くと約束してしまったから、そのことを話す必要がある。

 だが、セスの頭はまだリュシカにことの次第を説明できるほど整理できていない。それどころかいざ月明かりに照らされたリュシカの白い顔を見ると、昨晩広場で目にした儀式の光景――艶めかしく紅潮した表情や濡れた肌のことを思い出してしまいどうしようもなく気まずい感情に襲われた。

「どうしたの? こんな場所に。もしかして何か僕たちに用事でも?」

 そう呼びかけたリュシカも、セスが気まずそうに目を背けたのにつられて昨日のことを思い出したのだろう。頰がさっと赤く染まるのが暗い中でもわかった。

 リュシカは両腕に重そうに水がめを抱えている。水を汲みに行って戻るところだったのかもしれない。細い体に不釣り合いな容器を手に、足も少しふらついているようだ。思わずセスは腕を伸ばした。

「え、いいよ。自分で持てるから大丈夫」

 そう言ってしばらく腕の中の物を離そうとしなかったリュシカだが、セスが強引に水がめを奪い取ると「ありがとう」と礼を言った。

 並んで歩きながら、セスは自分が口を聞けないことを悔しく思った。当初ほどではないものの、まだアイクの無骨な外見やぶっきらぼうな物腰への苦手意識はある。頼みごとをするならばできればリュシカと二人きりのときにしたいのだが、このままだと彼らの家に行くまで筆談する隙はなさそうだ。

 今となってはアイクがセスに強い不信感を持ったことも当たり前に思えた。何しろセスは彼らがさらわれる原因を作った張本人だし、しかもアイクの恋人であるリュシカをクシュナンに差し出そうとしていたのだから。

 リュシカを再びクシュナンのところへ連れて行きたいと頼んだら、アイクはどれほど怒るだろうか。考えるだけで胃のあたりがきゅっと痛むようだ。

「……ありがとう。セスの薬のおかげでアイクの脚も少し良くなってきた気がする」

 セスは黙ったままリュシカの声を聞く。

 例えば今、自分が喋れるとすればなんと言うだろう。何か特別な用事があるとき以外、筆談はしない。セスにとって話とは聞くものだ。だが、文字を読むことを覚えれば退屈なクシュナンは、こんな些細な話にまで返事を求めてくるだろうか。自分は言葉を返さなければならないのだろうか。不安がセスの体の内側いっぱいに広がる。

 そしてセスは気づく。自分はクシュナンと言葉が通じあえるようになることが怖いのだと。

 セスは喋れないから、クシュナンは文字が読めないから――だから通じ合えないのは当たり前だと思っていた。でも、もしここでクシュナンがセスと言葉を交わす手段を手に入れたら? きっとクシュナンの言葉にうまく返事ができないことも、そもそもセスが彼の退屈を紛らわすほどの話題も機知も何ひとつ持ち合わせていないつまらない人間だということもばれてしまう。

 どうしよう。セスはぎゅっと腕の中の水がめを抱きしめる。クシュナンと意思の疎通ができるようになりたいと思ってしまったのは気の迷いだった。リュシカを再び連れてきて欲しいと言われてうなずいたのが間違いだった。このまま何も聞かなかったふりで、明日からも一人で彼のところを訪ねようか。クシュナンは怒るかもしれないし、がっかりするかもしれないけれど、きっと数日経てば諦めてくれる。

 しかし結局セスは招き入れられた小屋で水がめを床に下ろして、そのまま引き返すことができなかった。クシュナンは神の使いで、彼の願いはできるだけ叶えてやるのが自分の務めでありこの集落のためなのだと思えば、個人的な懊悩おうのうを理由に彼との約束を破る勇気は出ない。

「重かったのに、ありがとう。少し休んで行って」

 リュシカは汲んできたばかりの水を器に注ぎ、手渡してくる。アイクの反応を気にしてちらりと目をやるが、特にセスの存在に文句をつけてくる様子はない。

 セスは上がり口の隅にちょこんと腰掛けて、手渡された水を飲んだ。意識していなかったが喉が乾いていたのか、あっという間に飲み干してしまい、そうすると用件を切り出すしかない。おずおずと石版を外すと、二人もセスが何かを伝えたがっていることに気づいたようで、意外にもアイクがセスを呼び寄せた。

「そんな隅じゃなく、上がってきたらどうだ。近づかなければリュシカも何が書かれているのか読めない」

 セスはためらいながら二人のそばに寄り、クシュナンが明日からセスと一緒にリュシカにも自分の住まいを訪れて欲しいと言っていることを書いた。アイクに誤解を与えるのが怖いので、すぐに文字を消し、そこに「通訳と、クシュナンに字の読み方を教えるため」と書き足す。

 リュシカは迷惑がるだろうか。アイクは怒るだろうか。この集落になんの関係もない二人に怪我をさせ、人前であんな儀式をさせ、さらに迷惑な頼みごとまでしているのだから当たり前だ。だが、先に口を開いたのはアイクだった。

「いいじゃないか、行ってやれ」

 その言葉にリュシカの顔もパッと明るくなる。

「いいの? じゃあ行く、行きたい。せっかくクシュナンが字を覚えてもっとセスのことを知りたいって言ってるんだから、助けになりたい」

 もっとセスのことを知りたい――本当に? そして、セスの中身を、その浅はかさや空っぽさを知ったとき、クシュナンは……。無邪気なリュシカの言葉が不安を思い出させる。セスの表情があからさまに曇ったことに気づいたのか、リュシカが不思議そうに眉根を寄せる。

 いけない、不審に思われしまう。笑って、礼を言って立ち去らなければ、そうわかっていたのに、リュシカが優しくて、アイクもいつになく穏やかな態度だから気が緩んだのかもしれない。セスは震える指で書いた。

――でも、怖い。