23. ひとりには戻れない

 思わず吐いてしまった弱音。心の中にただわだかまっていた「怖い」というぼんやりとした感情は文字になった瞬間はっきりとした形を持ち、ぐっと存在感を増したようだった。

 セスは自分の書いた文字に怯え、手を伸ばすと急いで白くかすれた文字を指でこすって消し去ろうとした。恥ずかしい。こんなことを考えてしまうことが未熟で愚かなことだとわかっているのに、人前で吐露してしまうなんて。

 普段饒舌なリュシカが黙り込んでしまったことで、ますます自分が非常識なことを言ってしまったのだという確信は深まった。これまで自分は口がきけないだけで頭の中は人と変わらないと思っていたが、やはりそれは間違いなのかもしれない。カイや人々の方が実は正しくて、自分は人から見下され馬鹿にされるに相応しい人間なのではないか。

 顔を赤くしてうつむいたセスは、いたたまれず石版を再び手に取り立ち上がろうとした。すぐにでもこの場を離れてひとりになりたかった。だが、リュシカがそれを押しとどめた。

「待ってセス。わかるよ、僕。年下の僕にこんな風に言われたら気を悪くするかもしれないけど、君を見ていると少し前までの自分を思い出すんだ。だから君が怖がっている気持ちがわかる気がするんだ」

 少し感情がたかぶったような早口でリュシカがまくしたてるのを聞いて、だがセスの中では喜びよりは苛立ちが勝った。

 リュシカに自分の気持ちがわかるだと? 冗談じゃない。リュシカは輝くような肌に髪を持ち、この集落の人間誰もが息をのんだほどに美しい少年だ。

 聡明で、唇からこぼれる言葉や態度は自信に満ちていて、しかも隣には彼を愛し守るアイクが常に寄り添っている。セスが人生で一度も手にしたことのない、これからも手に入れることのできないであろうたくさんのものを当たり前のように備えた彼が、一体セスの何を理解できるというのか。

 思わずむっとしたのが表情に出たのかもしれない。リュシカはセスに伸ばしかけた手をぎゅっと握り膝に戻す。気まずい雰囲気が場を覆った。

「……今の姿しか知らないから、セス、おまえは信じないかもしれないが」

 言葉に詰まったリュシカをかばうように、口を開いたのはアイクだった。セスは石版を両手で握りしめたまま言葉の続きを聞く。

「リュシカはほんの数ヶ月前までほとんど誰とも口をきかず、誰にも顧みられることなく、ひとりきりで生きていた。俺は俺で故郷の村では化け物扱いされ孤独な境遇だった。俺たちは互いと出会うまで人と関わることも交わることも知らなかった。それが当たり前で、一生そのままなのだと思っていた」

 低い声でぽつりぽつりと語られる内容は、セスにはとても信じられないものだった。アイクが異形を理由に疎まれていたというのはまだ理解できるが、リュシカのような少年が孤独に生きていたと言われてもまったく真実味は感じられない。だが、この獣のように無骨な男がセスの機嫌をとるためだけに器用に嘘をつくだろうか。セスは混乱し、顔を上げるとアイクとリュシカの顔を代わる代わる眺めた。

「君が首を縦に振ったり横に振ったりするのと一緒で、僕は周りの人の言うことに『はい』『いいえ』のどちらかで答えるだけ。物心ついてからはずっとそうだった。誰かに心の中を打ち明けたり深くわかりあったり、そんなこと物語の中だけの出来事だと思っていたよ。彼が――アイクが現れるまでは」

 リュシカはできるだけ深刻にならないよう気を遣っている様子で笑みすら浮かべながらそう語った。しかしその笑顔は深い寂しさや治りきらない傷の存在を隠しきれていない不自然なものだった。

 嘘ではないのだろう。セスは、リュシカとアイクの言葉を信じた。

 こんなにぴったりと寄り添っている彼らは、まだ出会ってからそう長い時間が経っているわけではない。ずっとひとりで孤独に生きてきて、しかしお互いを知り、そこから今のような関係を築き上げたのだ。しかし一体どうやって。

 セスは再び石版を床に置いて、どう表現するか少し悩んだ上で単刀直入に訊ねた。

 ――怖くはなかった? 人のことを知ったり、人に自分のことを知られたりするのは。

 質問の内容をリュシカが小さな声でアイクに伝え、するとアイクは大きな体を少し縮めて体裁悪そうな顔をした。そんな彼の姿を微笑ましそうに眺めリュシカが今度は心底穏やかに笑った。

「怖かったし、今も怖いよ。でも、僕はもうひとりでいた頃には戻れない。きっと、アイクだって」

 そしてリュシカは手を伸ばすとアイクの短く硬い黒髪を、まるで愛玩動物に触れるときのように撫でた。セスは不似合いなふたりの姿を眺め、さっきまで体の内側を重苦しく支配していた不安が少しだけ小さく軽くなるのを感じた。

「どうだ、今、少し俺たちに心の内を話した気分は。人と話すことは、お互いを知り合うことはただ怖いだけか?」

 帰ろうとするセスにアイクがそう問いかけた。脚の麻痺が和らいだというのは本当なのだろう、ぎこちなくも自力で立ち上がり玄関先まで見送りに出てきた。

 セスはもうこの無愛想な大男を恐ろしいとは思わない。アイクの質問に首を左右に振り、ぎこちない笑顔を見せる。

「じゃあ、明日。昼にクシュナンの小屋でね」

 リュシカはそう言って手を振った。

 そして翌日から、三人の密かな勉強会がはじまった。神の使いの小屋で、セスとクシュナンとリュシカはぐるりと丸くなって座る。セスは子どもの頃に文字を習ったときに使っていた簡単な教本も持参した。

「ふうん、だが難しいものを読む必要はないな。とりあえず、こいつの書くことの意味がわかれば用は足りる」

「だったら、そんなに時間はかからないと思うよ。ただ読み書きの方法を知らないだけで、知っている言葉なんだから」

 孤独な生活を送っていたと言っていたが、リュシカは賢く教え方も上手かった。どこでどんな風にだかはわからないが、きっときちんとした人間からきちんとした教育を受けたことがあるのだろう。まずは普段のやりとりで頻繁に使う言葉から文字と音の対応をわかりやすく、しかし丁寧に教える。

 クシュナンはおそらくリュシカより倍ほども年齢が上だが、だからといってこの少年は一切遠慮することなく堂々と振る舞うし、クシュナンも思いのほか真摯な生徒だった。そして、リュシカの予想通り「読むだけ」に限れば、数日間集中的な訓練をしただけでクシュナンはある程度の能力を身につけてしまった。

 おしゃべりで明るいリュシカがいればまだ間が持つが、問題は夜だ。夕方に勉強の時間を終えるとリュシカはアイクの元へ帰る。セスは一度屋敷に戻ってから今度は夕食を手にクシュナンの小屋へ再び足を運ぶ。

 食事中は最初の頃はひたすら沈黙、ある時期からは一方的にクシュナンが話しかけてくるだけだったが、セスから言葉を引き出す方法を得た今となっては、クシュナンは石版を手にしたセスを隣に座らせて質問攻めにする。

「おい、前から思ってたんだが、この魚は旨いな。なんていう名前なんだ?」

 ――リプテル。滝壺に罠をしかけると、たまに捕れるんです。

「ふうん。セス、おまえも少し食ったらどうだ」

 ――いえ。僕は家に戻れば食事が準備されているので結構です。それにこれは神の使いのための食事だから。

「どうせ俺とおまえしかいないんだから、ちょっと飲み食いしたって誰も気づかないだろう。真面目な奴だな」

 そう笑い、クシュナンは楽しそうに酒をあおる。

 幸い質問はそう難しいものではない。ものの名前を聞いたり、セスの好きな食べ物は何かとか、兄と仲はいいのかとか、幼い頃はどんな子どもだったのかとか、他愛のない会話がほとんどでセスを困らせるようなことは一切言わない。セスの不安はやがて消え、クシュナンとの些細なやりとりを心地よく感じるようになっていった。

 こんなつまらない人間である自分を理解しようとわざわざ文字を覚える努力までしてくれる。クシュナンはやはり神の使いなのだ。ただの人間がこんなに親切であるはずがない。リュシカは自分がクシュナンと出会えたことと、兄が自分を神の使いの世話役に指名してくれたことに感謝した。アイクとリュシカに会えたのも、思えばクシュナンがいたからだ。

 そういえば――ふと、セスは思う。森の中でクシュナンを見つけたあの晩、彼はひとり断崖でたたずみ涙を流していた。

 男が泣くなどセスの集落では許されない恥ずかしいことであるのに、なぜだかセスはあのときクシュナンを美しく神々しいと思い、あの涙があったからこそ彼に強い興味を持った。今までもときどき記憶がよみがえることはあったが、一度もクシュナンとそのことについて話をしたことはない。

 今ならば自分はこの石版に文字を書いて、クシュナンに質問をすることができる。一体なぜあんな場所にいたのか。一体なぜ涙を流していたのか。訊けば答えてくれるだろうか。ためらいがちに石灰を手にし、しかし指は石版の上をさまようだけだ。

「どうした? 何か言いたいことがあるなら書いてみろ」

 酒を飲んで機嫌の良いクシュナンが、セスの迷う指先に気づいてうながしてくる。しかしセスにはどうしてもあのときのことを切り出す勇気は出なかった。どうせ理由を知ったところでそれはセスには関係のない話だ。そして――いくら自分がクシュナンのことを知ったところで、彼は間もなく山の神の元へ帰って行く。

 言い様のない寂しさにおそわれ、セスは思わず石版に書き付けた。

 ――あなたはもうじき山の神のところへ戻ってしまいますが、もし気が向いたら、たまにはこの集落に顔を見せてください。

 その文字をゆっくりと、口に出して読んでからクシュナンは意外にも驚いた表情を見せた。セスは、神の使いである彼はここを去る日が近いことなどすでに知っているとばかり思っていたのだが、もしかしたらそれは間違いだったのだろうか。

「もうじき……?」

 クシュナンは表情を硬くして杯を床に置いた。そして、その日は黙り込んだままそれ以上口をきくことはなかった。

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