28. スイの懊悩

 朝も早い時間に扉を叩かれ、まだ寝床にいたアイクとリュシカは慌てて衣服を羽織る。そこに立っている小柄な中年男のことは見たことがあった。確か、セスたちの暮らす長の屋敷で下働きをしていた。

 全力で走ってきたのか、男は息を切らしたままなんとか用件を口にした。

「スイ様が、支度ができたらすぐに屋敷に来て欲しいと」

「スイが?」

 アイクとリュシカは顔を見合わせる。確かに「契りの儀式」の件ではスイに貸しを作ったが、彼がよそ者であるアイクとリュシカの逗留を快く思っていないことには変わりないはずだ。一体なぜわざわざ屋敷に呼びつけようとするのだろう。

 二人の戸惑いを察した男は、周囲を見回して人がいないのを確認してから小さな声で告げる。

「実は、セス坊ちゃんがいなくなったんだ。あんたたちとは親しくしていたようだから、行き先に心当たりがないかとスイ様は気にしている」

 セスがいなくなったというのは聞き捨てならない話だ。必ず屋敷に出向くと約束すると、目立たないよう言い含められてでもいるのか男は周囲を気にしながら足早に立ち去る。アイクとリュシカも慌てて顔を洗い、身支度を調えた。

 屋敷へ向かう途中に二人の前に立ちはだかったのは、カイだった。

「なんだ、よそ者。もうずいぶん脚の具合は良さそうじゃないか」

 意地の悪い笑みを浮かべながらアイクの左脚を見つめてくる。セスの持ってきた薬草の効果なのだろう、アイクの体にはもうほとんど違和感はない。体も良くなったのだから、そろそろここを立ち去ろうかとリュシカと二人で話したのも昨晩のことだ。

「でかい方の脚が治れば立ち去る約束だろう。俺たちは大事な、山の神を奉る祭りを控えているところだ。神聖な祭りにおまえたちのようなよそ者を立ち会わせるつもりはない。さっさと去れ」

 だが、こんな風にきつい目でにらまれると腹が立ち、素直に出て行くつもりだとは言えない気持ちになる。

「スイならともかく、貴様に命令される心当たりはない。だいぶましにはなったが、まだ少し歩くとひどく痛むんだ。当たりどころが悪かったのは、誰かさんの毒矢の使い方がよっぽど下手くそだったからだろうな」

 揶揄するようなアイクの言葉に、カイの顔がかっと赤くなる。あの日アイクに向けて吹き矢を使ったのはカイだったに違いない。アイクは多少わざとらしく左脚を引きずりながら、恥辱に震えるカイの横を通り抜けた。普段ならばアイクが乱暴な物言いをすると制止してくるリュシカも何も言わないところをみると、ずいぶん腹を立てているのだろう。

「今の」と、リュシカがつぶやき、アイクはうなずく。

 まるでこの日この時間にアイクとリュシカがそこを通りかかると知っていたかのように、道の真ん中に立ちはだかったカイ。もしかしたらセスがいなくなったことにはカイが関係しているのかもしれない。

「早い時間にすまない。家族以外で少しでも弟と交流のある人間といえば、君たちしか思い浮かばなかった」

 屋敷に着いた二人が今回通されたのは広間でなくスイの自室だった。人よけをしてあるから何でも気にせず話してくれ、と言われるがすぐには何も浮かばない。なんせここ数日セスとは顔を合わせていないし、セスの失踪を知ったのもついさっきのことだ。

「……俺たちだけではないだろう」

 アイクは少し考えてから、口を開いた。スイは馬鹿ではない。今一番事情を聞かないと行けない相手のことは知っているはずだ。

「誰よりもセスを理解している奴のことを、あんただって知っているんだろう、スイ」

「ああ……まあな。だが、彼は人間ではない。神の使いだ」

 ため息交じりの言葉に、アイクは苦笑することしかできない。弟が姿を消して、その原因にカイと、おそらくクシュナンが絡んでいることくらいはよそ者の自分たちにだって想像できる。なのに、この期に及んでいったいスイは何を言っているのだろう。

「建前しか話す気がないのなら、一体なぜ俺とリュシカをここに呼んだ。俺たちはここの人間じゃない。あんたたちの集落のルールも何も関係ないんだ。」

 するとスイは諦めたように視線を落とし、二人に向けて「今までありがとう」と記された石板を差し出した。文字を読むことができないアイクにすら、それがセスの持ち物でセスの筆跡だということはわかる。

「昨晩カイがここに来た。弟と私を断罪するためだ。奴は、セスが掟を破って神の使いの拘束を解いたり、おまえたちと会わせたり、それどころか神の使いと寝たのだと言って弟をなじった。そして、セスをこの集落から追放しないのならば人々に掟破りについてばらすと……」

「そんな!」

 これまで黙っていたリュシカが悲壮な声をあげる。さっき、ふてぶてしくアイクとリュシカの前に立ちはだかったカイ。彼は自分の脅迫が成就したことを知り、勝ち誇るつもりだったのだろうか。

「ひどいよ、スイ。兄弟だろう。なんでカイがそんなひどいことを言うのを好きにさせたんだ」

「好きにさせたわけじゃない!」

 リュシカの感情に任せた叱責に、スイも感情で返す。この見た目以上に老成した将来のおさが、こんな風に取り乱すのを見るのははじめてだった。

「……その場ではカイには答えず、時間をくれといった。セスにも何も心配するなと言った。少し考えれば、何か解決策があると思っていた。行き先に当てがあるわけもないから、まさかその晩すぐにこんな衝動的な行動に出るとは想像もしなかったんだ」

 確かに、セスは真面目で思慮深く、とてもではないが一時の感情で家族を困らせる行動を取るようなタイプには見えない。だが逆に考えると、カイの脅迫はそのセスを動かすほど重いものでもあったのだ。

「クシュナン……神の使いのところにはいなかったか?」

 アイクの問いに、スイは少しの間口ごもり、しかし結局は正直に答えた。

「セスがいなくなったことに気づいてすぐに話を聞きに行った。……もしカイに見られていたとすれば私も掟破りだと言われるだろうな。セスは確かに深夜、彼のところへ行ったらしい。だが、話の途中で真っ青になって出て行ってしまったと」

「真っ青になって?」

 ああ、とスイはうなずく。そして顔を苦しげに歪めた。

「あの男はてっきり、セスが祭りを前に別れを告げに来たと思ったんだそうだ。そして、自分はただの人間の男で……祭りの最後に命を取られる覚悟はできていると……」

 嫌な予感は的中した。

 ほとんど確信していたとはいえ、実際にスイの口から祭りの終わりについて聞かされると、思った以上にアイクの心はざわめいた。それはリュシカだって同じだろう。クシュナンは本当に神の使いなどではないただの人間で、来たるべき山の神の祭りの最後に殺される運命にあった。そしてスイはそれを知りながら、世話役である弟にはひた隠しにしていたのだ。

「やっぱりセスには知らせていなかったんだな。そして当然あいつが神の使いなんかじゃないってことも、最終的には殺すってことも、あんたは知っていた。それどころか毎日顔を合わせているうちに、セスがあいつに情を移すことだって想像できていたんじゃないのか」

 アイクの声は自然と荒くなる。この怒りが純粋にスイやこの集落の人々に向いたものなのか、それともかつてリュシカを生け贄として焼こうとした王都の人々に向いたものなのか、もはや自分でも判別はつかない。

 今度は、スイは逆上しなかった。むしろ完全に打ちのめされた様子で、膝の上で握りしめた拳を振るわせて声を絞り出す。

「ああ、想像していなかったなどと言い逃れるつもりはない。だが、人々に疎まれ何もできないと思っている弟に自信を持たせたかったんだ。そして弟にも大きな仕事を成し遂げることができるのだと人々に思い知らせてやりたかった。そうすればきっと誰ももうあいつを白痴などとは呼ばない。ここにセスの居場所ができると……」

 スイの姿は正直哀れみを誘う。だが、その哀れみもアイクの苛立ちを完全に覆い隠しはしない。だって、そんなのはただのスイの思い込みで、自己満足だ。実際に神の使いの世話役をやり遂げたとして、あとから真実を知ればあの怯えた優しい男は何を思うだろう。そんなこと、ほんの短い付き合いしかない、赤の他人の自分やリュシカにだってわかることなのに。

「自分が世話していたのが神の使いでなくただの死刑を待つ生け贄だったと知って、セスが何の自信を持つと思っていたんだ。言えよ、おまえたちはどうやってあの哀れな囚人を殺す気でいるんだ」

「首を切る。……だが、それはただ束の間の肉体を滅ぼすだけで、神の使いは魂になって山の神のもとへ……」

 もう十分だ。アイクがそう思い、いよいよ大声を上げそうになったところで、しかし代わりに口を開いたのはリュシカだった。

「そんな話が聞きたいわけじゃない。確かに、あなたも父親か誰かにそう教えられたんだろう。で、それを信じ込むことで罪悪感から逃れていると。でも、セスにはそんな話は通じなかったってことですよね」

 リュシカの美しい顔からは完全に血の気が失せている。今聞いている話がアイクにとって耐えがたいのであれば、リュシカにとってはもっと辛いものであるに違いない。泣き出しもせず、取り乱しもせず、唇をわななかせながらもできるかぎり冷静に言葉を継ぐ少年の姿に、アイクは神々しさすら感じていた。

 スイは今にも崩れ落ちそうだった。方法を多少間違えたとはいえこの男が弟を愛していたことに間違いはない。ただでさえセスの出奔に動揺し、傷ついているスイがアイクとリュシカの叱責の前に、二人を追い出すことをせずにいるだけでも、もしかしたら尊敬すべきなのかもしれない。

「……おまえたちになにがわかる」

 声に滲むのはひたすらの苦悩。

「こんな山奥で厳しい自然に囲まれて生きていく中で、俺たちは団結して協力しなければいけないんだ。人々を争わせず、厄災に見舞われた際にも憎み合わないよう――集落がひとつになるために私たちには神の使いという偶像が必要だったんだ。よそ者の君たちには理解してもらえないかもしれないが」

 理解ならば、できる。リュシカを《少年王》としてとりこにしつづけた王宮の人々、王都の庶民だって考えは同じだった。社会を守るためには、多くの人の利益を守るにはときに生け贄が必要になる。それを否定するわけではない。

「あんたには同情しないわけではない。それに今までがどうだったかは知らないが、少なくともクシュナンは殺されることを受け入れようとしていたよ。俺たちは逃がしてやると言ったんだ。だが、セスを裏切れないと言って断られた」

 うなだれたスイに哀れみを感じ、アイクは少し言葉を和らげた。しかしスイは力なく首を振った。おさの息子であり跡継ぎ、人々の尊敬を集め自信に満ちた男の姿はもうどこにもない。

 そこにあるのはただ、欺瞞を破られ、愛する弟を失い絶望に暮れる哀れな男の姿だった。

「いずれほころびは出るとわかっていた。クシュナンと言ったか、あいつに会いに行ってしまった以上、私ももはや掟破りだ。祭りは失敗し、おさの一族による統治も終わるだろう」