29. 優しい嘘が消えたあと

 夜の鳥が啼いている。

 セスははっと顔を上げる。いつの間にこんなにも時間が経っていたのだろう。座り込んでいる岩から夜の冷たさが伝わり、セスの尻もすっかり冷え切っていた。

 一睡もしていない。水も飲まず、ものも食べず、気づいたらまた夜になっていたのだ。悪い夢を見ているような気がするが、もちろんこれは現実。セスの頭の中で繰り返し繰り返し再生されるクシュナンの言葉だって、間違いなく彼が口にしたものだ。

 クシュナンは神の使いではなかった。そして、山の神の祭りの最後に行われる儀式で彼は殺される運命にある。

 一体自分は何をやっていたのか。彼をもてなす世話役をきどりながら実のところは死を待つ囚人の監視役だったなんて、愚かさを通り越して惨めさを感じる。クシュナンがこんなことで嘘をつくはずはないから、少なくとも彼は自身を生贄だと信じているのだろう。

 とはいえ祭りの件については集落の人々と接触する機会のない彼にはそんなこと知りようがない。勘違いに決まっていると自分に言い聞かせようとして、セスの頭に浮かんでくるのは怒ったような兄の顔だ。何もかもクシュナンの思い違いであるならば、なぜスイは、セスが祭りの最後に立ち会うことをあんなにも強硬に禁じたのか。祭りの仕切りを任されている兄はそこで何が行われるかを知っていて、どうにかしてセスに見せないようにしようと考えたのではないか。

 セスはぼんやりと立ち上がる。

 いつから自分のまわりはこんなにも多くの嘘や隠しごとにまみれていたのだろう。傷ついていないと言えば嘘になる。最も信用していた兄が、そしてクシュナンがセスをだましていた。ただ、その一方でセスは、彼らがなぜ自分に真実を語れずにいたのかを知っている。

 これらはすべて、優しい嘘と隠しごと。クシュナンはセスの献身に応えるために真実を告げずに、神の使いの振りを続けた。それどころか、どうせ死ぬつもりだったからと、その命すらセスに役割を全うさせるため投げだそうとしている。逃げる機会ならいくらだってあったのに。

 スイだって同じだ。セスのことを思って大役を任せ、セスを傷つけないよういずれ神の使いの命を奪うことを黙っていた。セスがもう少ししっかりしていたら、愛する二人にこんな嘘をつかせることもなかったのかもしれない。

 クシュナンの話を聞き、混乱と動揺の中セスはただ逃げ出すことしかできなかった。彼の腕を振り払い、小屋を飛び出してそのまま振り向きもせずより深い山奥に走った。あまりにショックが大きく、一人になりたいとしか考えられなかった。そして、朝が来て、昼が来て、また夜が来た。

 自分が集落からいなくなりさえすれば何もかも上手くいくと思っていた。カイはおとなしくスイに従うようになり、山の神の祭りは何事もなく執り行われる。その最後で神の使いであるクシュナンは人々に見送られながら、神の元へ帰って行く。それですべての平和は保たれ、誰もが幸せになるのだと。だがセスは真実を知ってしまった。

 予定通り祭りが行われれば、そこでクシュナンは殺される。そんなのは絶対に嫌だ。一年近く彼のそばに寄り添ってきたのはこんな結末のためではない。セスはふらふらと、身を隠していた岩穴を出た。

 人々はセスの不在に気づいているだろうか。兄はすぐに新しい世話役をクシュナンにあてがっただろうか。今、あの小屋に行って、もう一度だけ誰にも気づかれずクシュナンに会うことはできるだろうか。彼を――救うことはできるだろうか。

 ひどい頭痛でまともに考えることなどできない。月のない暗い夜だ。疲れのせいか普段ならば目をつぶっても軽やかに歩けるはずの山道で何度も転び、ときに斜面を転がった。それでもセスは、クシュナンを死なせることだけは絶対に嫌だという強い気持ちで立ち上がる。だって自分はこの一年間、彼に身を捧げて彼を守るために生きてきたのだから。

 不思議なほど静かだった。クシュナンの小屋が見えてきても見張りの姿もない。もしかしたらスイは、集落の平穏のために黙ってセスの不在を受け入れることにしたのかもしれない。

 セスは小屋の扉のすぐそばの地面を掘る。クシュナンをこの小屋に縛り付けている鎖を解くための鍵は、うっかりなくしてしまわないようここに埋めることにしていた。鍵が他の何者にも奪われずにそのまま残っていることに一安心する。

 はじめてセスは、ノックせずに小屋の扉を開けた。

「誰だ?」

 警戒するような声。ドアのきしむ音で目を覚ましたのかもしれない、暗闇に目の慣れたセスにはクシュナンが体を起こすのが見えた。だが、クシュナンも眠ってなどいなかったのだろう。何度も地面に倒れたせいで汚れ、ひどい姿をしたセスに驚いたように声をかけた。

「セス……一体どこに行っていたんだ。それに、その姿」

 自分はきっとひどい顔をしている。それどころか泥や落ち葉にまみれてずいぶんみっともない格好をしていることだろう。本当ならばこんな姿はクシュナンには見られたくない。でも今は状況が状況だ。

 セスは足早に部屋の隅に埋め込まれた鉄柱に歩み寄ると、そこに固定された南京錠に手をかける。明かりがないのがもどかしい。手探りで小さな鍵穴を探し、そこにさっき掘り出してきた鍵を差し込もうとする。クシュナンを水浴びに連れ出すときに、何度も開け閉めした錠なのに、暗闇のせいか、ひどく焦っているからなのか、なかなか上手くいかない。

「セス、おまえ何を」

 驚いたようにクシュナンが肩に触れてきた手を振り払う。今はクシュナンの声すら邪魔だ。とにかく急がないと。誰にも気づかれないうちにこの鍵を外して――。

 カチリ、と小さな音がした。続いて鉄の塊が床に落ちる。

 鍵は外れた。クシュナンの足首には相変わらず重い鉄の足枷がついたままで、そこには太い鎖がつながっている。だが、鎖の先は今や何にも固定されていない。セスは鎖を両手でかきあつめ、クシュナンの手の中に押し込む。そして彼の袖を引いてすぐに小屋から出ようとした。歩きにくいのは変わらないし、鎖の重さは負担になる。だが、ここにつなぎ止められて死を待つよりは、逃げる努力だけでもしたほうがずっとましであるに決まっている。

 しかし、セスが強い力で引っ張っているにも関わらずクシュナンは脚を踏みしめ動こうとしない。逆にセスの腕を強い力でつかみ、言う。

「馬鹿なことを考えるな。こんなことしたらどうなるかわかっているのか」

 そう言われてセスははっとする。いや、もちろんわかっている。わかっていて、それでもクシュナンを死なせたくないからここにやってきたのだ。だがクシュナンはセスの肩をつかむと強く体を揺さぶる。

「おい、セス。よく考えろ。俺の目を見ろ」

 それでもセスが袖を引く動きを止めないので、クシュナンは片手でセスの顎をつかむと無理矢理顔を上げさせた。セスの心を虜にした青い色の瞳にはこれまで以上の意志の強さを感じさせる暗い光が宿っている。

「俺を逃がせばどうなるか、想像できるだろ。『神の使い』がいなくなれば祭りはできない。人々は『神の使い』が逃げ出した責任を誰に求める? おまえは一体、何のために集落を飛び出したんだ?」

 まっすぐな問いかけに向き合うのが怖くてセスはなんとか目をそらそうとするが、クシュナンは強い力でそれを許してくれない。

「掟破りをばらすと脅されていたんだって、おまえの兄貴から聞いた。おまえはあの兄貴のため、家族のため、集落の安寧を守るため身を引こうとしたんだろう。だが、俺がいなくなって祭りが失敗すれば、おまえがいようがいまいが関係なしに、集落の統制はとれなくなるぞ」

 スイがクシュナンと話をした? 世話役以外がクシュナンと接触するのは掟破りになるはずだ。兄が、あの責任感の強い兄がクシュナンに会いに来たというのか。セスの動揺はそのままクシュナンに伝わってしまう。

「ああ、取り乱して今朝ここに来た。おまえがここにいるんじゃないかと思ったらしい。自分が脅しに対して強い態度を取れなかったから弟に責任を感じさせてしまったと、憔悴していた」

 ――あまりにも残酷だ。

 セスは力を失い床にへたりこむ。兄を、家族を守ろうと思えばクシュナンを見殺しにしなければならない。クシュナンを逃がせば生まれ育った集落がばらばらになり、家族の身の安全すら危うい。自分はどうやったって愛する二つのもの両方を守ることはできないのか。どちらかを切り捨てないわけにはいかないのか。

 クシュナンがゆっくりとしゃがみこむ。鎖が揺れるじゃらじゃらという音。すっかり聞き慣れたその音が今はどうしようもなく辛い。出会わなければ、あのときこの男を見つけなければ。

 温かい体温がゆっくりとセスの体を覆う。クシュナンがセスを抱きしめ、落ち着かせるように背中を何度も撫でてくる。

「俺を見つけなければ良かったなんて、考えるな。もともと死ぬつもりの命だったんだ。これももしかしたら、どうせ粗末にする命ならば少しでもおまえのような善い人間の役に立てという山の神とやらの導きなのかもしれないと思うよ。大丈夫、俺は最後まできちんと神の使いとして振る舞って見せる」

 セスは言うことを聞かない子どものようにただ首を左右に振った。山の神がそんなことを考えているのだとすれば、神とはどこまでセスを嫌っているのだろう。

 決して欲深いわけではないつもりだ。家族とクシュナン、たったの二つだ。ほとんどの人が持つもの、声も友人も、他人からの信頼や尊敬も何一つ持たず、だからといって世を恨むわけでもなく、そっとあきらめて生きてきた。そんな人生でたった二つだけの大切なものですら、運命はセスにどちらか一つだけを選べと強いるのか。

 抱き合ったまま、セスもクシュナンも一歩も動けなくなった。ただ、時間が止まればいいと、このままこうして抱き合ったまま、永遠に朝など来なければ良いと願う。

 長い時間が経ったかもしれないし、ほんの短い間だったのかもしれない。ぎしり、と扉がきしむ音がした。カイがまたのぞきに来ているのかもしれないと、セスは緊張で体を固くする。だが、闇の中に現れた人影は、ゆっくりと小屋に入ってくると口を開いた。

「いいから、逃げろ」

 セスは自分の目を疑うが、間違いなくそれは兄だった。兄が自分とクシュナンの前に現れ、逃げろと言っているのだ。

 スイはクシュナンに歩み寄ると力任せに足首を引き、手にした鍵を使って足枷を外してしまう。鉄柱側の鍵は万が一のためにとセスに渡されていたものの、もうひとつの鍵は置き場所すら教えてもらえていなかった。その鍵を持って兄がここに来て、完全にクシュナンの拘束を解いたのだ。セスは目を丸くして兄を見る。

「セス、おまえが何を考え何に悩んでいるかはわかっているつもりだ。でも、私のこともみんなのことも今は気にするな。この男を連れて、夜のうちにできるだけ遠くへ逃げろ。そう長く隠し通すことはできないだろうが、おまえならば追っ手を撒くこともできる」

 スイはうっすらと笑みを浮かべているが、その表情は明らかに疲れている。疲れ果てて投げやりになり、長の跡継ぎとしての立場も、集落の若者を束ねる立場からも目をそらしている、そんな風に見えた。

 セスは一切身動きができない。クシュナンを死なせたくない。でも、こんなにも疲れ果てて、それでもなんとかセスを守り、セスの幸せを優先しようとしてくれる兄を犠牲にすることもできない。

 暗闇の中、セスはスイに自分の気持ちや迷いを伝える手段を持たない。だが、クシュナンが代わりに口を開いた。

「おまえ、セスがそんな風に言われたところで簡単に家族を見殺しにできるような奴じゃないって、わかっているんだろう」

 図星を突かれた兄は、声を荒げる。

「だったらどうしろと言うんだ! 弟はおまえに心を許している。おまえに心を奪われている。そのおまえをセスから取り上げる役目を私にやれというのか。……だって、はじめてなんだ。セスがこんなにも……」

 だんだん小さくなった声はそのうち闇に溶け、沈黙が場を覆う。

 やがて雲が晴れたのか、月の明かりが窓から室内に差し込んだ。白く淡い光に三人の男の姿が照らし出される。そのときクシュナンはふと輝く月を見上げ、思い出したように言った。

「もしかしたら、ひとつだけ方法があるかもしれない」

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