僕と機械仕掛けと思い出(2)

 日曜日、おじいさんの家を訪れた僕の目の前に一冊のパンフレットが差し出された。

「何これ」

「学校のパンフレットです」

 しらじらしい様子でベネットさんが言う。彼がこういう態度をとるときは、決まって何かを企んでいる。しかも僕にとって嬉しくないことを。十一歳というのはもう、そのくらいのことを察することができる年齢だ。

 肘掛け椅子に座っているおじいさんにちらりと目をやると、なぜかこちらを見ようとしない。つまり、共犯。

 パンフレットの表紙には、どこかで聞いたことのある学校の名前と、良く言えば荘厳、悪く言えば古ぼけた建物の写真。手に取ると、たかがパンフレットには不似合いな分厚くて手触りのいい紙でできていて、表紙をめくると制服姿の生徒たちが笑い合う写真が現れた。

「で、この学校がどうしたの?」

「アキヒコ様もやがてはラザフォード様の事業を継がれるのですから、お若いうちから相応の教育や人脈を作っておくに越したことはないと思いまして。直近の進学実績や評判も含めて幅広く検討いたしましたが、やはりラザフォード様もご卒業されたこちらのカレッジが……」

「……が?」

 立板に水のように話すベネットさんは、やがて僕から向けられた冷たい視線に気づいたようで、こほんとひとつ咳払いをして救いを求めるようにおじいさんの方をみた。

「つまり――」

「アキヒコ、来年試験を受けて、この学校に編入する気はないか?」

 要するに、そういうことだった。

 僕はずっと公立の学校に通っている。住んでいるエリア自体は治安に問題はないし、学校にも大きな問題はない。ベンをはじめとする小さい頃からの友達とも仲良くやっているから、このままずっと公立の学校に通い続けるつもりでいた。十六歳で中等教育が終わってからは――そんな先のこと、まだ考えられない。

 なんとかカレッジという名前は聞いたことがある。確か今の首相もその学校出身で、それからすごく有名な大学の政治学部に通って、政治家になった。でも、たまにテレビで流れてくる国会のやりとりでは、「首相はパブリックスクールから大学までずっと上流階級のお仲間に囲まれて、世間知らずだ」と舌鋒鋭く野党議員に批判されている。だから僕はなんとなく、有名で特別な学校に通うのはよくないことだと感じていた。

「……そういうのって、特別な人が行くところなんでしょう。僕には関係ない話だ」

 僕が政治家になることは決してないだろうけど、そうでなくともああいう学校に通えば誰かに悪口を言われてしまうに違いない。想像すると怖くなって、パンフレットをそっとテーブルに戻す。

「その〈特別〉というのが何を指すのかは存じませんが、アキヒコ様は紛れもなく、ごくごく一般のお子さんというわけではないと思いますがね。知力学力はもちろんですが、若い頃からの人脈というのは何にも代えがたいものですよ」

「でも、首相はあんな学校に通ってたからダメだって言われてる」

 するとおじいさんが口を開く。

「私も同窓だが、アキヒコは私のことをダメな人間だと思うか?」

「それは……」

 僕はうっと黙りこむ。

 優しいおじいさんのことは大好きで、ダメな人間だなんて思わない。でも、おじいさん自身、昔を振り返って「若い頃は嫌な奴だった」と言っていた。そのせいでおじいさんの娘――お母さんはこの家を飛び出して、僕を産んだ後も一度だっておじいさんに会わせようとはしなかった。

「皆がそうだとは思わないけど……でも。それに、人脈って言うけど、ここにはあんまり人も来ないし」

 おじいさんを非難したいわけではないけれど、ベネットさんの言う「特別な学校に行く利点」を丸ごと信じる気にはなれない。下を向いてもじもじしながら正直な感想を伝えると、ベネットさんが慌てたように身を乗り出す。もしかして、僕はとても失礼なことを言ってしまったのかもしれない。

「アキヒコ様! それはあなたがいらっしゃるときには他の客人を断っているからで、普段はこの家には仕事の客も訪れます。それに、ラザフォード様がご自宅でほとんどの仕事をこなすことができるのも、お若い頃から積み上げた知識と経験と人脈があるからなのですよ!」

「そうなの?」

 調子のいいベネットさんの言葉を疑っておじいさんに確かめると、小さくうなずいた。持ち上げられると謙遜することが多いおじいさんにしては珍しい反応だった。

 僕は黙った。

 この家に来るようになって数年間は、おじいさんが何者なのか知らなかったし、気にすることもなかった。やがて、この家がこんなに古くて大きいのはラザフォード家が由緒ある家柄で、おじいさんがたくさんの財産を持っているからなのだと知らされた。サーシャはおじいさんのことを「サー・ラザフォード」と呼ぶが、その「サー」というのは特別な家の男の家主だけが名乗ることができるのだという。

「男子ひとりのみ相続できます。そして世襲できる爵位は今では稀少なんですよ」

 そう教えてくれたのはサーシャだった。

「だったらお母さんが生きていたとしても、〈サー〉にはなれなかったの?」

「ええ、男の子に恵まれなかったので、サー・ラザフォードも一度は絶家を覚悟なさったようです。使用人や事業もそのためにずいぶん整理されたと。だから、アキの存在を知ったときは嬉しかったんでしょうね」

 つまり、いつか将来――そんな日は永遠に来ない方がいいんだけど、もしもおじいさんが亡くなるようなことがあれば、僕が新しい「サー・ラザフォード」になって、大きな家も、おじいさんの持っているたくさんの土地や、その他のいろんなものも受け継ぐ。僕の希望など関係なしに、そう決まっているらしい。

 サーシャもベネットさんも、それはとても良いことであるように話すけど、僕にはぴんと来ない。おじいさんやベネットさんやマーサと会える郊外の大きな家を訪ねるのは楽しいけれど、僕のものにしたいと思ったことはない。

「いらないよ、だって僕の家はここだから」

 生まれてからずっと住んでいる、お母さんが死んでしまってからはサーシャと暮らしているアパートメント。部屋はみっつしかないし、リフトがないから重い荷物を持って上がるのは大変だけど、やっぱり僕の家はここだけ。お母さんとの思い出と、今ではそれ以上にたくさんのサーシャとの思い出が詰まっている部屋だけなのだ。

 僕がそう言うと、いつもサーシャは微笑む。

「まだあなたは幼いから」

 それは「十八歳になってサーシャの契約が満了する日」の話をするときと同じような笑い方で、僕を落ち着かなくさせた。

 僕の気持ちはともかく、おじいさんがこの家や〈サー〉に強い思い入れを持っていることはわかっている。だから僕は、おじいさんが喜んでくれるならば、実際にここに住むかは別として、この家や〈サー〉をもらうこと自体は嫌ではないし、そのためにこのパンフレットの学校に行った方が良いというなら――考えてみてもいいのかもしれない。今の学校の友達と別れるのは寂しいけど、たまに一緒に遊べばいいし、新しい場所に行けばきっとそこで新しい友達もできる。

「うーん……おじいさんがそんなに言うなら」

 大人の男の人ふたりに囲まれては、分も悪い。どうせ試験だってしばらく先の話なのだから。そんなことを思いつつ、もう一度パンフレットに手を伸ばしてぺらぺらとめくる。

 宣伝だからきれいな場面ばかり載せているのだろうけど、学校は古いけどきれいで、運動場も広く、学生はみんな清潔で賢くて性格も良さそうに見えた。もしかしたらここは、そう悪いところではないのかもしれない、そう思いながらもう一ページめくったところで僕は手を止める。そこには、決して見逃すことのできない記述があった。

 ――寮の紹介。全寮制の当校は、学力や運動能力のみならず自立心や協調性といった人間的な成長を促します。

「やっぱり、嫌だ。こんな学校絶対に行かない」

 僕はすぐさまパンフレットを閉じて、テーブルの上に投げ出した。