先制攻撃を仕掛けるつもりが、予想外の奇襲攻撃。友達もいないようなおとなしくて地味な奴、ちょっと脅せばどうになるだろうとたかをくくっていたアカリだが、心の準備もない状態で話しかけられるとさすがに動揺する。
「え、ひ、人聞き悪いな。何言って……」
「じゃあ心当たりはないんだな」
冷静に告げてくる表情は一切変わらない。そういえばあのときも、じっと真顔で凝視してきてそのままいきなり嘔吐したのだ。
能面か、おまえは。ロボットか。だがそんな軽口をたたける間柄でもなければ状況でもない。
「だ、だって、俺、蒔苗のこと全然知らないから。これから同じゼミで仲良くできるように、どんな奴かあらかじめ知っておきたかったんだよ」
歯が浮きそうな嘘を蒔苗は特に肯定も否定もせず、代わりに遠慮のかけらもなく一直線に核心をついた。
「そう。明里が友好的な態度なら良かった。同じゼミで気まずいのは周囲に悪いだろう」
「え、な、何の話かな」
協調性のかけらもなさそうな顔から「同じゼミで気まずいのは周囲に悪い」という言葉が出てくるのは意外で、だからこそそこに言外の意味を感じ取ってしまう。というか、もろに言外の意味を込められていた。
「別に心配しなくても俺は誰にも言いふらしたりしないし」
「だから何の――」
結局言いたいのはそれか! アカリは慌てて蒔苗の腕を引き、人気のない教室へ連れ込む。こいつ友達いなくて当然だ。絶対性格悪いぞ。
「おい、蒔苗! おまえ俺を脅す気か」
「だから、誰にも言わないって言っただろ。まさか明里が野外で男と」
「わーっ、わーっ」
「大声出さなくても大丈夫だって。外には聞こえてないよ」
アカリはへたりこんだ。もう駄目だ。こんな性格悪そうな奴に弱みを握られて、俺の平穏な生活はおしまいだ。
ああ、こんなことになるなら開放感に惑わされて青姦なんかせずおとなしくホテルに行っておくんだった。後悔するが、今更だ。
「あのさ、どうして欲しいの? 俺、金はないけど、おまえが金欲しいって言うならできるだけ作るし、レポートとか代返とか肉体労働でもなんでもするから。まじで、ばらされたら人生終わるんだよ。人生終わったら化けて出てやるからな」
懇願しているつもりが、本音がにじむ後半はどうにも脅すような調子になってしまう。
蒔苗は哀れなアカリの頭の先から足の先までじろりと一瞥し、少し考え込むような仕草をした。そして一言。
「別にいい」
アカリの事前の情報収集にあったとおり、蒔苗は裕福なので貧乏学生から小銭を巻き上げる必要などない。その上、大学の授業や課題をそれなりに面白くためになるものだと感じているので、代返も代筆も必要ないというわけだ。
つまりのところ、交渉決裂。
蒔苗はとりあえず「ばらさない」と言っているが、能面ヅラに棒読みでいくらそんな言葉を吐かれたところで安心などできるはずはない。
そもそもアカリは一方的な善意など信じない。セックスには金。だから、沈黙にも必ず対価が必要なはずなのだ。
一方的に生殺与奪を握られている状況はとことん気に食わないが、取引を断られたアカリにはどうすることもできない。アカリはその日以降半ば社会的な死すら覚悟して、毎日毎日死地に赴く兵隊のような気持ちで大学へ通った。
翌週金曜日はゼミの新入生歓迎会だった。倉橋教授の他に、四人の四年生――写真評論をやっている野田、映像作家を目指すマーク、伝統芸能について調べている高梨、ジェンダーとアートがテーマの相沢、加えて三人の新入生が大学近くの大衆居酒屋に集まった。倉橋自体が学部の中では異色のタイプの教員であるためか、学生もややアーティスト寄りというか、同じ専攻の中でも変わり種的なメンバーが多い。全七人のうち高梨と相沢、そして滝百合子が女性だ。
大学近くの居酒屋で乾杯を済ませ、四年生は興味深そうに次々三年生に質問を浴びせてくる。すでに顔見知りのアカリへの問いかけは少なめで、どうしても初対面の百合子や蒔苗へ話題が集中してしまう。
アカリは自分が話題の中心になることはそんなに好きではないし、何かのついでに蒔苗の弱点でもわかれば、という邪な思いで耳を傾けた。
「蒔苗くんはここで何がやりたいの? うちのゼミは社会学部のチベットみたいなところだから自由度高いよ。論文じゃなく作品制作でも卒業単位に認定されるんだ」
「俺は映画に興味があって」
「えっ、映画?」
蒔苗の答えに、すぐさま映像作家志望のマークが食いついた。少年時代に日本のゲームや漫画に触れて以来ひたすら日本に憧れていたというマークの日本語は流暢だ。もちろん英語に加え、華僑ルーツの彼は中国語も巧みに操る。
「蒔苗くんは作る方ですか? 観る方ですか?」
「もっぱら観る方ですね。作る方は特には」
「へー、だったらゼミでも評論系でいくのかな? で、どういう映画が好きなの?」
「何でも観るんで、お勧めあったら教えてくださいよ」
曖昧に誤魔化す蒔苗を野田がからかう。
「俺の経験上、何でもって言う奴に限ってすっげえこだわりがあるんだよなあ。さてはシネフィルだな、蒔苗くん」
「そんなこだわりないですって」
意外にも蒔苗は周囲と普通にコミュニケーションを取っている。会話もそれなりに盛り上がっている。相変わらず顔は能面だが、アカリに対するときのように感じが悪いわけでもない。
ショックというか、なんとなく腹立たしかった。
俺にはあんな感じの悪い脅迫まがいのことをしてくるのに、他の奴には愛想振りまくのかよ。果たしてあの程度が愛想と呼べるのかはわからないが、今のアカリにはそう思えた。
トイレに立った際、ちょうど廊下で蒔苗と出くわした。少し酔っ払ったアカリは思わず絡み口調になってしまう。
「あのさ蒔苗、おまえって、表裏激しい?」
「誰だって多少はあるだろ。表裏も、人に知られたくないことも」
思わせぶりな言葉に腹が立つ。っていうかまた脅しかよ。いや待て、「誰にだって多少は」?
「……おまえにも、あんの?」
アカリの問いに、蒔苗の口元がわずかに笑みの形に動いたように見えた。それは、はじめて目にする蒔苗の笑顔だった。
「あるよ。運が良ければそのうちわかるかもな」
そして、その日は案外早くやってきた。