5. 真夜中、映写室

「そういえばアカリくん、これ興味あるんじゃないかな」

 ゼミが開始して数週間が経った頃、アカリは倉橋教授から一枚のDVDを渡された。

 ラベルの貼られていないディスクを手に首をかしげていると、倉橋は散らかった机の上を探って数枚のコピー用紙を束ねたものを探し出した。それはどうやら映画のプロモーション資料のようだった。

「浅井承平の次の映画だよ。君、好きだって言ってただろ。パンフレットに解説書くよう頼まれてサンプルをもらったんだ。僕は昨日四年生と観たけど、アカリくんも興味があればどうぞ。来週の水曜までに返してくれれば持っていって構わないよ。もちろん内容はまだ秘密でね」

「本当ですか?」

 浅井承平は低予算にも関わらず叙情的で美しい映像を作ることで近年評価を上げている若手映画監督だ。アカリは彼の作品がとても好きで、以前提出した課題レポートの中で言及したことがあるのだが、倉橋はどうやらそれを覚えてくれていたらしい。

 貴重な浅井の公開前作品を観ることができるのも嬉しいし、倉橋が自分のレポートの内容を覚えてくれていたのも嬉しい。アカリは礼を言って、DVDを手に教授室を後にした。

 午後からは近所のファミレスでアルバイトだった。

 一年生の頃から続けている厨房スタッフとしての技量は既にベテランの域に入っている。時間が空けばできるだけ長くシフトに入りたいと伝えてあるので、今日も午後二時から夜十一時まで、短い休憩を挟みながらぶっ続けで働くことになっていた。

 仕送りゼロの大学生活は、なかなかのハードモードだ。当初は試行錯誤したものの、今のアカリは平日は二十四時間営業で柔軟に予定の立てられるファミレス、土日は体力的にはきついけれど単価の高い引っ越し屋でアルバイトをしながら、月に数度趣味と実益を兼ねて出会い系で相手を探して多少の小遣いをもらっている。

 それでも毎月の生活費の他に半期ごとに授業料を振り込まなければいけない。学校で使う書籍は不当に思えるくらい高いし、長期休みには合宿参加などでまとまった金が必要になることもある。正直「はたらけどはたらけどなほ我が暮らし楽にならざり」を地でいく生活だ。

「あー、疲れた」

 ようやく長い勤務時間を終えてロッカーで着替えを済ませたところで、倉橋に借りたDVDのことを思い出した。

 幸い明日は一限の講義はないので、これからゆっくり堪能しようと決めたところでふとした考えが浮かぶ。

 映写室、行こうかな。

 実は、倉橋ゼミは学内に映写室を持っている。部屋自体はそう大きなものではないが、真っ暗にすることができ防音設備もしっかりした部屋は壁の一面が丸ごとスクリーンになっていて、備え付けのプロジェクターとスピーカーを使えば大画面、大音響で映画を楽しむことができる。

 ゼミ生はセキュリティの暗証番号を教えられているので、二十四時間好きな時間に部屋を使うことが可能で、それもまたアカリが倉橋ゼミを選んだ理由のひとつだった。

 ――遅いから誰もいなきゃいいけど。

 ファミレスからアパートに帰る途中にどうせ大学の近くを通る。せっかくの浅井監督作品ならば、自宅の小さなノートパソコンではなく大画面で堪能した方がいいに決まっていた。

 アカリは真っ暗でひと気のない大学構内に入ると、先客がいないことを祈りながら映写室のある棟に入り、エレベーターに乗りこんだ。「14」と書かれたボタンを押すとドアが閉まり、少しの間があって、内臓がふっと浮かぶような感覚に襲われる。アカリは昔からエレベーターに乗ったときのこの感覚が苦手だ。もちろん遊園地の絶叫マシンなどにも絶対に乗らない。

 映写室の出入りは電子錠で制御されていて、読み取り部分に学生証をかざした上で所定の暗証番号を入力する必要がある。部屋を利用する権利を得てからまだたったの数週間、操作に慣れないアカリは頻繁にエラーを出してしまう。

 ピー、と小さな音がして、赤いランプが点灯する。エラーだ。もう一度。しかしまたもやエラー。おかしいな、と思って半ばやけくそにドアノブに手をかけると、意外にもそれは難なく回った。

 なんだ、開けっ放しだったのか……。中にいるのは一体誰だろう。倉橋か、よくここに籠もって自分の作品に見入っているマークか。

 遠慮がちに細くドアを開けると、けたたましい悲鳴、咆吼。加えて暗闇の中で激しく点滅する光が、一気にアカリの目と耳に飛び込んできた。

 壁一面のスクリーンに目をやると、獣人というのか、狼男のように体に毛を生やした大きな男が、赤毛の女を追い詰めているところだった。

 映像の質は悪く、特撮メイクであろう獣人の造形は笑ってしまいそうなくらい粗い。女もいかにも安い女優といった風体で、棒読みの悲鳴を上げて逃げ惑っている。やがて女は壁際に追い詰められ、獣人は鋭い爪で彼女を一閃。真っ赤な血潮が画面一杯に飛び散った。

 なんでこんなところでスプラッタ映画が? 大体においてこの手のゼミで学生が好むのは、ちょっと高尚な、欧州の映画祭で賞を取るような映画だったりする。なのに、画面に映っているのはB級どころかCを通り越してD級くらいのスプラッタ映画。

 呆気にとられながら部屋を見回したアカリは、声を上げようとして、結局言葉を失った。

「な、な、な」

 大画面のスプラッタ映画を前に、折りたたみ椅子に座った観客はただひとり。

 しかも、画面の中で血を流し倒れて息絶える女を観ながら、股間に手をやり自らのペニスを握っているそいつは――紛うことなきアカリの天敵、蒔苗聡だった。