醒めるなら、それは夢

醒めるなら、それは夢

65. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

ここに来て何日が経っただろう。時計もない。カレンダーもない。三日なのか三ヶ月なのか、はたまた三年なのかもわからない。そうつぶやくとマックスは「まだたったの一週間だ、ニコ」と言ってぽんと肩を叩いた。一日の仕事から解放された男たちはぞろぞろと夕食配給の列に並びはじめる。全員が同じ縦縞の服に帽子の人間の群れに最初はぞっとしたが、すぐに見慣れて何も感じなくなった。配られるのは薄いスープと小さなパンの塊。ほぼ毎日同じメニューだが、たまに多少のラードの塊やソーセージのようなものがつくこともあるのだという。ニコはまだお目にかかったことはない。
醒めるなら、それは夢

64. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

ニコとの思わぬ再会から一夜が明けても、ユリウスの動揺は治まらなかった。一日のうちに、あまりにも多くのことが起こりすぎた。想像をはるかに超えた、殺人装置としての収容所の実態。自分自身が移送者の選別を通じて人々をガス室に送る作業に関わってしまったこと。そして、そんな残酷な作業に従事している姿を最も見られたくない相手に知られてしまったこと。たった一晩で心の整理ができるはずなどなかった。夕食、朝食と二食を抜いてもユリウスの食欲は戻らず、なんとか出勤はしたものの昼になっても食堂には行かずに執務室でぼんやりとしていた。ちょうど外出から戻ってきたリーゼンフェルト大尉にその姿を見とがめられる。「どうした、もう音を上げたか?」部屋に呼びこまれ、まずそう問われた。リーゼンフェルトはユリウスに椅子を勧めることをせず立ったままにさせる。憮然とした顔で机の前に立つユリウスは、ベルリンで一緒にアウシュヴィッツに行きたいかと意向を確認してきたときにリーゼンフェルトが執拗に「収容所がどういう場所か知っているか」と問い詰めてきたことを思い出していた。今になってようやくその意味がわかった。あんな質問をして、その上で何も知らないユリウスの希望を一度は却下した。あれは優しさだったのではないか。ユリウスは重い口を開く。「大尉はご存じだったんですね、何もかも。だからあのとき、一度は俺がここに来たいと言ったのを却下したんですか」「……覚悟のできていない人間を連れてきても、使い物にはならんからな」大尉は昨日ユリウスが何を見て、何をしたのかについては訊かない。すでにどこからか報告を受けているか、そうでなくとも今のユリウスのひどい顔色を見れば理由はわかってしまうのかもしれない。覚悟のできていない人間、確かに自分はそうだった。いくら劣等民族だ社会の敵だと教えこまれても、戦場でもない場所で軍人でもない一般市民を殺すことなど想像したこともなかった。そして、いざ組織の一員としてその一端を担うことが求められたときに、自分がその仕事をやってのけることができるとも思ってはみなかった。確かにショックを受けている。そして国や親衛隊そのものへの失望や自分の犯した罪そのもの以上に、ユリウスは――当たり前のこととして指示された場合に、戸惑いながらも簡単に残虐な行為に手を貸すことができた自分自身に驚き恐怖を感じていた。「だったら他の皆は、覚悟ができているんですか? 俺は、戦争だからもし戦場に出ることがあれば人を殺すことも仕方ないと思って訓練を受けてきたし、ナポラの友人たちもそうだったと思います。でもあれは、〈あれ〉は……やはり戦争とは何かが違っているような気がしました。誰も疑問は持たないのですか?」ユリウスの攻撃的な問いかけに、大尉は首を振る。「どうだろうな。人の内心までは見えない。大体戦場でだって、国のためとか勤めだとか大義名分があるから戦えるわけで、誰だって殺したくも殺されたくもないだろう。〈あれ〉が何かは私にもわからん。ただひとつ確かなのは、この国はもうずいぶん長いこと〈あれ〉に至る道を多くの国民に支持されて歩んできたということだ」あれは不穏な時代のはじまり、〈背後からのひと突き〉という言葉を聞いたのはまだユリウスが幼い頃だった。前の戦争はユダヤ人や社会主義者の妨害により敗北したのだという話がまことしやかに語られるのを不思議な思いで受け止めた。世の中は少しずつ変わり、公園から締め出され買い物すら不自由になったナタリーがドイツを離れた。やがてニコが学校に通えなくなり、そして――。何がいけなかったのか。どこがターニング・ポイントだったのか。そして、今ここで行われていることは本当にドイツ国民の望んでいることなのか。ユリウスにはわからない。鉤十字の腕章をつけてユダヤ人を罵っていた教師だってドイツ人だったし、しかし公共交通機関で座ることを許されないユダヤ人に堂々と椅子を勧めるドイツ人の姿を見たこともある。「俺は、ナチ党が嫌いだったんです」言葉はするりと口からこぼれた。ナポラに入学して以降、人前で党や総統への批判を口にしたことはない。今の自分の立場を考えればこういった言動が処分の対象になりうることも知っている。しかし大尉と自分の二人しかいない部屋で、今だけは正直な気持ちを口にすることが許されるような気がした。「子どもの頃はヒトラー・ユーゲントに入りたくなくてごねたし、家政婦が――ユダヤ人の女性にとても良くしてもらったので、市民権の制限が厳しくなった頃に彼女がドイツを離れることになったときには、さんざん父親に文句を言いました。あんな政策許されるべきじゃないって……」「そのおまえが、なぜかナポラに入って、今では親衛隊員というわけか。これも党の青少年教育の勝利だと思っていいのかな?」その皮肉じみた物言いにユリウスが少しほおを緩めたのを見て、大尉もうっすら笑ったように見えた。そしてひとつ息を吐いてから、おそらく今一番言いたかったであろうことを告げてくる。「ユリウス・シュナイダー、おまえがあんなにも総督府にこだわっていた理由は知らないし未来永劫聞こうとも思わない。そして、おまえが本当にここの勤務が耐えがたいと言うならば、上官として異動させる手がないわけではない。もちろん初任地をすぐに投げ出すような隊員がその後どういう扱いを受けるかは覚悟すべきだが」「……総督府に、こだわっていた理由」ユリウスのつぶやきに、大尉はうなずく。「直訴してまで来たがった目的を果たさずここを去るとして、それで後悔がないかということだ。ただし戦場やそれ以外でも、どうしても環境が合わず心を病んだり最悪自死する兵士を私は過去に何人も見て来た。そうなるくらいなら尻尾を巻いて逃げ帰った方が組織と本人お互いのためだ」それだけ言うと、リーゼンフェルトは時計を見て「昼休みも終わりだ、もう行け」とユリウスを解放した。しかしユリウスがドアノブに手をかけたところで背後から再び低い声が聞こえてくる。「……私の国防軍の若い友人に、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクという男がいる。正義感も強ければ気も強い面白い男だよ。国防軍は親衛隊とは風土が違う。おまえはあっちの方が向いていたのかもしれないな」ヒトラーの私的組織から国を牛耳るところまで勢力を拡大してきた親衛隊と、正規軍としてのプライドを持つ国防軍は正直関係が良好であるとはいえない。しかし大尉の場合は親衛隊の武装部隊に入る前は国防軍に所属していたこともあり、両方面に顔が効くという話を聞いたことがあった。しかしユリウスはリーゼンフェルトが挙げた人物のことは知らないし、国防軍とも接点がない。唐突で意味のわからない言葉に首をかしげるしかなかった。「何の話ですか?」「いや、ただの独り言だよ。それにおまえはあいつほど清廉ではなさそうだ。私利私欲の塊に見える」自分自身の深いところを見透かされているような気まずい思いでユリウスは大尉の部屋を出た。席に戻り書類の山から何枚か取り出して午後の仕事に取りかかるが一向に集中できない。総督府に固執した理由、そんなの簡単だ。ユリウスはただニコに会いたかった。そして目的は果たされた。ニコとの四年ぶりの再会――よりによって最低最悪のシチュエーションで。凍りついた表情、あれだけでニコが親衛隊の制服に身を包んだユリウスをどう思ったかは想像できる。再会への妄想は完全に甘いものだったわけではない。何よりユリウスには、ニコの大切な兄であるレオを死に追いやる原因を作ったという引け目もある。うまく再会できたとしてその件はどうするか。考えるたびユリウスはのらりくらりと自分をごまかして、優しいニコだから許してくれるのではないかとか、最悪の手段ではあるが、黙っていればニコにはわからないのではないかと考えもした。そう、ユリウスがユダヤ人を殺したのは昨日が初めてではない。直接的に手を下さなくともプロセスに関わることを罪に数えるのならば、自分はすでにレオを殺している。親衛隊の制服を着る前の自分も、着てからの自分も本質的には何も変わってはいないのかもしれない。大きな違いはただひとつ、ニコに偽ることができなくなっただけだ。ユリウスが本当にやりたかったのは何だったろう。ニコに良いところを見せて愛情と信頼を勝ち取りたい? 愛し愛されニコを自分だけのものにしたい? もちろんそれはそうだ。でも、本当に大事なのはニコを守り救うことではなかったのか?電気の流れる有刺鉄線に囲まれた区画に立ち並ぶ収容棟の風景が頭に浮かんでくる。昨日の朝見せられた、やせ細って薄着のまま野外労務に駆り出される人々。職員から聞いた「働けなくなったら再び選別されるだけです」という言葉。そうだ、昨日のあれでおしまいではない。少なくとも移送時の選別は免れたが、ニコにとってアウシュヴィッツでの日々ははじまったばかりなのだ。そして、これからも様々な危険がニコを襲う。だったら今自分が本当にやりたいことは。例え軽蔑されようとも絶対にやり遂げるべきことは?――必ずニコをここから生きて外に出す。
醒めるなら、それは夢

63. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

ユリウスが親衛隊員になっていた。他の子どもたちがニコのユダヤの血筋をからかえば殴りつけに行き、父親にユダヤ人との付き合いを控えるように言われても決してニコを見捨てない、かつてのユリウスはそんな少年だった。他の誰より正義感にあふれていたはずの彼が一体なぜ、どうして。頭の中で疑問だけがぐるぐると回る。ニコがハンブルクを離れてからの四年間に、一体幼馴染の身に何があったのだろう。
醒めるなら、それは夢

62. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

ニコはその日、四年近くを過ごしたクラクフの街を離れた。なかばイツハクを脅すように書類を改ざんさせたのでアウシュヴィッツ行きの列車に乗りこむのは最後の方になってしまった。別れ際、イツハクはニコの耳元でささやいた。「気をつけろ。あそこでは少しでも弱っている姿を見せたら死ぬぞ」小さくうなずくニコは、それでも構わないと思っていた。アウシュヴィッツの環境が悪くプワシュフよりも死に近い場所であるとしても、それでも母と妹と一緒にいたい。兄と父を失い、これ以上家族と離ればなれになるよりは母や妹と同じ場所で死ぬ方がまだましだ。しかしそんな思いや「死」という言葉を口にしてしまえば母が心配することはわかっているので、ニコはただ黙って母と妹に手を貸しながら列車に乗りこんだ。身動きをとるにも苦労するほどぎゅうぎゅう詰めで、まるで家畜を運搬する貨車に乗せられたかのようだった。いや、実際ナチスは自分たちを家畜程度に思っているのだろう。働けるうちこそ最低限の住処と餌は与えてもらえるが動けなくなったら見捨てられる。暴れでもしようものなら、即時つぶされる。ゲットーでも、反乱を計画したとか指示に従わないとか、そういった理由で人が絞首刑に処されるのを見たことはある。収容所の状況はきっともっと悪いに違いない。「収容所に入るときには身ぐるみはがれるらしいぞ」列車の中で誰かがそんなことを言い出すと、とたんにちょっとした騒ぎになる。これまでも散々財産を取りあげられ、そんな中でもわずかな金や貴金属を守り通した人々は存在する。それ以外にも例えば家族の写真や思い出の品なども、持ち主にとってはかけがえのない大切なものだ。服の縫い目に隠しておけばいいとか靴底にしのばせればいいとか、人々はできる限りの知恵を伝え合う。中には金の粒や宝石を飲み込んでしまう者もいた。衛生的には好ましくないが、硬い宝石は消化されないから後日排泄物から取り出せば良い。ある意味では一番安全な方法だった。「母さん、何かある?」ニコが訊ねると母は小さく首を振った。一家にはもう金品は残っていない。母は結婚指輪すら既に食料と替えてしまっていた。「隠すようなものはないわ。家族写真なんて彼らには何の価値もないから、取り上げはしないでしょう」ニコ自身も金になるようなものなど何ひとつ持っていない。あえて大切なものといえば、レーナを経由して受け取ったユリウスからの「迎えにいく」というあのメモひとつ。ニコは今もあれを後生大事に、捨てられずにいた。あんな紙切れに、ただの子どもの約束に何の意味もないことなどニコはもう十分理解している。ハンブルクを離れた当初こそ、本当にユリウスが助けに来てくれるのではないかと夢のようなことを考えていたが、日が経つにつれてそれが現実的な考えではないことを思い知った。だが、そんなことは百も承知でニコは今もこの手紙を捨てることができない。自分が普通のドイツ人だった頃。平和で幸せだった時代と今の自分を繋ぐ唯一の糸がユリウスで、あのメモであるような気がしていた。あの手紙がある限りニコは、自分の人生はずっと孤独だったわけでも辛いことばかりでもなかったのだと思うことができた。ニコの革靴は壊れかけて靴底がぱこぱこと部分的に浮いている。その隙間を指で開き、ニコはそっとあの手紙を押しこんだ。クラクフとアウシュヴィッツは近いので、あまり長い時間列車に乗らずに済んだのは幸いだった。移送距離の長い人々はあんなぎゅうぎゅう詰めでトイレもないような車両に何日も揺られているのだろうか。それだけで死人が出てしまうに違いない。やがて誰かが「おい、見えてきたぞ」と言い、小さな車窓に人々が殺到する。押しつぶされそうになる妹を守ろうと、ニコは必死にレーナの上に覆いかぶさった。そして間もなく、列車は停止した。列車の外で待っているのは自由でも楽園でもなく強制収容所。それでも息苦しいほど過密状態の車内で疲れ果てた人々は、新鮮な空気と十分なスペースを求め先を争って車外へ出て行った。ニコと母親、そしてレーナは決して急いでいたわけではないが、後ろから来る人々の圧力に押されてどんどん入り口の側に流されていく。離ればなれにならないようにニコがレーナの手を握ると、妹もしっかりとニコの手を握り返してきた。車両から降りると、目の前には広いプラットフォームと、よくもこの列車にこんなにも多くの人が乗っていたと驚くほどの人、人、人。ばらばらと降り立つ人々は、収容所職員の怒鳴り声に押されるようにしてどんどん列に振り分けられていく。「男はこっち、女はこっち。さっさと並べ、立ち止まるな」大きな声を耳にすると、手を繋いだままのレーナが心配そうに顔を上げる。レーナのもう一方の手を握っている母も落ち着かない表情でニコを見た。「お兄ちゃんは別なの?」「最初の検査はね。きっとまた中で会えるよ」その言葉には何の根拠もない。ニコだって、ここで男女バラバラに振り分けられることなど今この瞬間に知った。だがここで妹に余計な不安を抱かせてはいけないから落ち着いた振りをしてレーナに笑って見せた。それから同じように母親にも笑いかけ「大丈夫、また後でね」と言った。強がってみせてはいるが、妹の手を離すのは身を切るように辛い。レーナを不安にさせてはいけない。でも何よりニコ自身が不安に押しつぶされそうで、ここで柔らかい妹の手を離してしまうことは怖くてしかたなかった。「おい、そこ、何やってる。立ち止まるな!」再び大声が響き、それはおそらく自分たちに向けられたものだった。ニコは辛さをこらえてレーナの手を離し、一度だけ柔らかい髪を撫でた。「また後でね、レーナ」「またね、お兄ちゃん」「ニコ、気をつけるのよ」そして母と妹と離ればなれになったニコは、近くにあった列の最後尾に並んだ。列についてからもどうにも名残惜しく、遠ざかっていく母とレーナをずっと目線で追っていたが、ここにはあまりに人が多く、そのうち二人は人波に紛れて見えなくなってしまった。列はじわじわと進んでいく。どうやら先頭まで行くと、そこで何らかの審査をされ、右と左どちらかの列に振り分けられるようだ。見たところニコから見て右側のグループのほうが、若く健康そうな男が多い。もし左の列に振り分けられたら、労働不能と思われより劣悪な環境に放り込まれるのかもしれない。ニコは少しでも自分を健康に力強く見せようとまっすぐ立って背筋を伸ばした。やがてニコの順番がやってくる。ユダヤ人の行列を前に素早く人を振り分けているのは親衛隊の褐色の制服を着た男だ。帽子を目深に被っているので顔はわからないが、まだ若そうだ。痩せて貧相なニコとは違って、背が高くしっかりとした体格をした男は凛々しい制服に身を包み自信と威厳に満ちているように映った。そして冷酷に、家畜を仕分けるように自分たちを右に左に振り分けていくのだ。この男も、兄を連れ去ったゲシュタポや父と叔父を連れ去った親衛隊員と変わらない。冷酷で残酷で、仕事だからと言って人をひどく扱えるような人間だ。そう思うとふつふつと反抗心のような気持ちが湧いてきて、ニコはできるだけ堂々と男の前に立ち、にらむような目を向けた。だが、うつむき気味の男はニコの些細なプライドになど一切興味を示さず、素早く指先をニコから見て右側に向けた。列を移るとき、母と妹はどうなったのかが気になって女性側の列を見ようとニコは少しだけ振り返った。ちょうど同じ瞬間に、つい今しがたニコを右の列に振り分けた親衛隊の男が帽子のつばを軽く持ち上げてニコの方に目を向ける。それまで深く被られた制帽に隠れて見えなかった緑色の目と、ニコの茶色い目。視線が正面からぶつかり、ニコがぎょっとした顔をするのに気づくと相手は緑色の目を気まずそうにそらし、再び選別作業に戻った。ニコは、足下が、自分を支える世界そのものが崩れていくような感覚に襲われていた。――ユリウスだ。背が伸びて、大人びた顔つきや体格になっている。しかしニコがユリウスを見間違えるはずはない。あの冷酷な親衛隊員は、ニコにとってたったひとり残された友人で、過去の幸せな日々とのつながりで、いつの日かこの辛い生活から助け出してくれるはずのユリウスだったのだ。力が抜けて、手に持っていたカバンが地面に落ちる。何をやってるんだ、さっさと並べ。耳元で響く怒鳴り声にはっとしてあわてて荷物を拾うが、激しい鼓動は収まらない。膝から下がガクガクと震え、立っていることすら辛い。「おい、しっかりしろ」隣に並んでいるユダヤ人の男がニコの腕を引く。どうやら周囲からは恐怖で腰が抜けそうだと思われているようだ。しかし今のニコの頭にあるのはまったく別のこと、別の衝撃だった。今見たのは何だ? 何かの間違いか、人違いじゃないのか。だって、ユリウスが親衛隊に入るはずはない。ユリウスがあんな格好で、こんな場所にいるはずはない。しかし、いくら心の中で否定しようとしたところで、視線をそらしたときに気まずそうな表情を浮かべたあれがユリウスで、しかもニコの存在に気づいていたことは明らかだった。ニコを迎えに来てくれるはずのヒーローは、たった四年の間にニコを捕らえ虐げ殺す側の人間になっていた。
醒めるなら、それは夢

61. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

  列車の中からなかば押し出されるようにしてよろめきながら飛び出てきた、それがニコだということは目をこらすまでもなくわかった。どんなに遠くても何年離れていてもユリウスにはニコを見分けることができる。それが単なる思い込みやうぬぼれではなかったことに自分でも驚いた。だがそれはユリウスに特殊な能力が備わっているからではなく、身長こそ多少は伸びているもののニコの全体的な背格好や身のこなしなどが驚くほど変わっていなかったからなのかもしれない。