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9. 尚人

普段より早い時間についた事務所で机に積んである書類を動かすと、昨日何かの拍子に紛れ込ませてしまったスマートフォンが姿を現した。「あー、やっぱり……」スリープ画面には着信履歴とメッセンジャーの受信履歴がずらりと並んでいる。もちろんそのほとんどは授業のキャンセルを知らせる真希絵からのものと、真希絵からの相談を受けて事務所のスタッフが連絡してきたものだった。
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8. 未生

「悪いけど君の冗談に付き合っている暇はないんだ」全身で逃げを打とうとする尚人を追って、未生は三和土に降りる。冷静を装った言葉とはうらはらに萎縮した姿を見ると、獲物を見つけた肉食動物の興奮で背中がぞくぞくした。まったく面白いことになった。真希絵の頼みを聞くなんて面倒だと思っていたが、いまとなってはこんなおいしいチャンスを与えてくれた彼女に感謝したいくらいだ。
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7. 未生

下卑た誘いに引きつった表情を浮かべる男を見下ろしながら、笠井未生は「ちょろそうな相手だ」と思った。それなりに整った顔立ちをしているし見た目にも相応に気を遣っているようだが、自信のなさそうな雰囲気のせいでパッとしない印象を残す。その上スーツも革靴もびしょびしょの濡れ鼠になって玄関先に立っているのだから、今日の相良尚人はとんでもなくみすぼらしく見えた。
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6. 尚人

ちょうど一週間後、再び笠井優馬の家を訪れる日はひどい雨が降っていた。それだけでも憂鬱な気分になるのに、さらに運の悪いことに、尚人は家庭教師事務所にスマートフォンを忘れたまま授業へ出かけてしまった。気づいたときにはもう引き返すことのできない場所まで来ていたので、仕方なしにそのまま一番手である女子中学生の家に向かう。授業が終わって時間があれば取りに戻るか、せめてスマートフォンが手元にないことを事務所へ連絡しておきたいと思ったのだが、少女の母親から高校受験についての相談を受けているうちに次の授業までギリギリの時間になってしまった。
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5. 尚人

画面に「|塚本《つかもと》|渚《なぎさ》」という発信者名が表示されているのを確認して少し躊躇したものの、尚人は電話に出ることにした。いまは誰かと話していた方がきっと気が紛れる。「もしもし相良? 元気?」相変わらずはつらつとした様子の渚は、大学時代に学部から博士課程までずっと尚人と同じゼミに所属していた女性だ。