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14. 栄

ようやく主意書答弁の案文作成に一区切りついた頃には、東の空は白みかかっていた。大井が大きく伸びをしながら、電話を切ったばかりの山野木に状況を確認する。「うー、さすがに眠いな。山野木、課長なんて言ってた?」「メールで送った文案はこれからご覧になるそうです。目を通したら折り返しお電話くださるって」
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13. 栄

谷口栄は最悪の気分でマンションを出た。今週もずっとタクシー帰りが続いていた。体力はある方だし仕事が嫌いなわけでもないのだが、さすがに慢性的に睡眠時間が足りていない。しかも今日は一度帰宅して、少量とはいえビールを飲んだことで完全に集中力が切れてしまっている。ここから再び気持ちを仕事モードに持っていくのは簡単ではない。
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12. 尚人

こういうことは過去にも何度もあったのに、栄の機嫌の良さに舞い上がった尚人は今日こそは一緒に食事ができて、もしかしたらその先もあるのかもしれないという期待を膨らませすぎていた。そして膨らみきった風船に針を刺すように、たった一本の電話で尚人のプランは何もかも無に還ってしまった。
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11. 尚人

その日、仕事を終えて帰宅した尚人は玄関に栄の革靴が脱ぎ捨ててあるのを見つけた。腕時計を確認するとまだ時刻は九時過ぎ。こんな時間に帰って来ることは近年ほとんどなかった。何でもない日だったらもっと無邪気に喜んだのかもしれないが、一瞬気まずさを感じてしまったのは今朝方に栄のシャツを抱きしめて自慰をしてしまったことが頭をよぎったからだ。もしもあんなはしたない行為がばれたら、栄からは馬鹿だと思われてしまうかもしれない。不安が拭いきれない尚人はリビングに行く前に脱衣所の洗濯機を確認した。朝に脱衣所にあったものすべてはドラム式洗濯機の中で乾燥まで終わっていて痕跡は何一つ残っていない。ほっとした。
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10. 尚人

尚人は寝室で眠っていた。とても疲れていて誰にも邪魔されたくないけれど、ひとり寝を寂しく思う気持ちもある。小魚に引かれる釣竿の浮きのように眠りの浅い場所と深い場所を何度も行ったり来たりする。ごく浅い場所まで意識が浮き上がったところで、廊下を歩く足音が聞こえてきた。ひとり暮らしをしている頃は防音性の低い安いマンションで暮らしていたから、いまも尚人は自分の足音が気になって家にいるときはスリッパを常に履いている。一方の栄は「ここ、分譲だから造りもしっかりしてるし、足音なんかそうそう響かないさ」と言い張り、風呂から上がってしばらくのあいだは素足のままで家中を歩き回る。