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69. 栄

しばらくちらちらと栄の方をうかがっていた山野木が、意を決したように立ち上がってデスクにやって来る。「補佐、らい……再来年度の予算方針の件で一度重点事項の打ち合わせをさせていただきたいんですが」
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68. 栄

あっという間に三月に入り、職場は少しずつざわめきはじめる。栄を含む法律職キャリアの人事異動は夏中心だが、省内では実際の政策運用を取り仕切る一般職をはじめ四月の年度初めに異動が行われる職員が過半数だ。またこの時期の人事異動には地方出先機関や地方自治体への出向など、遠距離の転居を伴うものも多い。実際の内示はまだでも水面下で情報が飛び交うのがこの時期の常だった。
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67. 栄

寝ていていいと言ったが尚人は朝、栄の出勤前に一緒に起きて来た。シャワーを浴びているあいだにコーヒーが淹れてあり、そういえば昔の自分たちの生活はこんな風だったことを思い出した。尚人が帰りの遅い栄を待たなくなったのも、朝の出勤に合わせて起きてこなくなったのも、栄がそんなことをするなと怒ったからだ。いくら仕事が忙しかったからといって尚人をないがしろにしていたことには疑いようもなく、振り返れば反省や後悔もあるのだがいまは正面切って向かい合う気になれない。
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66. 尚人

階段を駆け下りコーヒーショップを出てからも尚人は一度も振り返らなかった。ほとんど小走りのような速さのままで事務所の入っているビルまで急ぎ、エレベーターホールに入ったところでようやく一息つく。呼吸を整えてからおそるおそる後ろを向くが、未生の姿はなかった。いや、未生が追ってきていないことなど最初からわかっていたのだから、わざわざ振り向いて確認する必要こと自体が馬鹿げているといっていい。二人の体力の違いからすれば、未生がその気になれば十メートルも進まないうちに尚人の腕をつかんでいたことだろう。
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65. 未生

「……よりを戻したって、一昨日あれから?」正直な話をすれば未生は尚人の言葉を疑っていた。俺とあれだけ抱き合った後で、またセックスをしたなんて嘘だろうと、いうのが本心だが、あまり露骨な言葉を投げても尚人の態度をかたくなにさせるだけだとわかっている。未生は自分なりに穏当な言葉から会話をはじめたつもりだった。「うん」