心を埋める

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29. 尚人

引き寄せられた尚人の体は反射的に逃げようとした。しかしその瞬間、軽く触れていただけだった未生の手にぐっと力が込もり熱い体に抱きすくめられる。瞬時に拒否の言葉が出なかったことをもって同意と言い張るのはどう考えても強引だ。しかし一度触れたことで口づけを当然の権利だと決めたのか、未生の動きには遠慮も迷いもなかった。
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28. 尚人

未生を部屋に残しひとりでバスルームに入ったものの、シャワーで済ますべきか浴槽に湯を張るべきか尚人は迷った。ここに来たことを後悔してはいないが、完全に吹っ切れているとまでは言えない。湯船に浸かって心を落ち着けたい反面、下手に時間をかけると迷いが大きくなってしまいそうな気もした。
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27. 尚人

自分から誘うようなことを口にしたものの現実感は伴わない。だが、先に立ち上がった未生はさっと尚人の目の前に置いてあったトレイを取り上げると返却口へ持っていってしまった。尚人には、もたもたとコートを羽織りながらその背中を追うことしかできない。場所を変えると言われてもとっさにイメージは湧かなかった。一体どこへ向かうつもりなのだろう。少し考えて、昨日未生が冗談めかしてラブホテルという単語を口にしたことを思い出し心がざわめいた。
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26. 尚人

面倒なので夕食まで済ませてしまおうと思いサンドウィッチとコーヒーを注文した。食欲はないが、何も入れないのも体には良くない。カウンターで数分待って注文品の乗ったトレイを受け取った。運転再開までの暇つぶしの客も多いのか店内の座席は八割程度が埋まっていたが、運良く空いていた窓側のカウンター隅を陣取る。申し訳程度のレタスと塩気のききすぎたパストラミビーフの挟まれたサンドウィッチは温めも不十分でお世辞にも美味とは言えない。コーヒーで無理やり喉の奥へ流し込んだ。
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25. 尚人

眠れないまま外が明るくなった。やがて隣の部屋の扉が開く音がして聞きなれた栄の足音がバスルームへと向かう。少し億劫そうな、ゆっくりとした足音。いつも通りの月曜日の朝だ。尚人は起き出すことをせず壁越しに聞こえてくる生活音にぼんやりと耳をそばだてていた。いまは栄の顔を見たくない。