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24. 栄

弁当は高いものを選んだだけあって旨かった。ここ数年は日常の食生活の八割を職場に併設されたコンビニエンスストアに頼っている栄にとって久々に食べるまともな食事は格別で、臓腑に染みわたった。ダイニングテーブルに向き合って座り、それぞれ無言で弁当をつつく。食事に夢中になっているふりをしているが本心は互いに何を話して良いのかわからないだけだ――ということに、おそらくは栄も尚人も気づいている。
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23. 栄

肌が水をかき分ける感触が気持ちいい。昨晩は十分な睡眠をとることができたとはいえ体力が落ちているのは明白で、栄が三千メートルを泳ぎ終えるにはいつもより長い時間がかかった。水泳は物心ついた頃には習いはじめていた。体力をつけるには一番効率的な方法だと信じ込んでいる父の一存だったようだ。栄自身はむしろ小学二年生のときにはじめた剣道の方に夢中になったが、家庭内では専制君主である父からスイミングクラブをやめる許可を得られたのはようやく小学校を卒業する頃だった。
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22. 尚人

不毛な会話を続ける気にもなれずうずくまったままでいる尚人の首筋に、やがて冷たいものが触れてくる。指先から伝わってくる感情は謝罪でもいたわりでもなく、ただのからかい。うっとうしくて振り払うが、案の定しつこい男は何度でも手を伸ばしてくる。触れた指がつうっと首筋を滑ると、反射的に肌が粟立った。
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21. 尚人

未生が発した言葉はそれまでの話の流れとは一切脈絡がないように思えた。いくら縁のないタイプといえ年齢は十も離れていないだろうし、昨年まで大学院生だった尚人は年齢の割に若者との接点が多い方だと思っていた。それでも未生の言っていることはさっぱり理解できない。
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20. 尚人

麻布十番の駅から少し離れた場所にある喫茶店を指定して電話を切ると、尚人は大きくため息をつく。出かける前に財布の中身を確かめた。二十五歳の誕生日に栄からプレゼントされたのは本革の長財布で、人気の職人ものだから半年以上前から予約して手に入れたのだと言われた。ファッションにもブランドにも疎い尚人がその価値を正しく理解できたとは言い難いが、貴重な品を自分のためにわざわざ手に入れてくれた栄の優しさが嬉しかった。