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89.  栄

「は? 何でナオがおまえの家に行かなきゃならないんだよ。ふざけるな」まっすぐこちらを向いた未生のつむじに向かって栄は吐き捨てた。ついいまのいままでしおらしいことを言っていたが、結局目的はこれか。おとなしく話を聞いてやったことがひどく馬鹿らしく思える。
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88.  栄

十五分ほど経ったところで未生はやってきた。入口すぐのところで立ち止まりきょろきょろと店内を見回しているので栄は仕方なく片手を上げて合図をした。デニムに、スウェット地のカジュアルなジャケット姿の未生は改めて眺めても確かに見目は悪くない。だが全体から漂う軽薄な雰囲気はどこからどう見ても自分や尚人と関わりを持つようなタイプとは一線を画している。そのことで栄は不安や怒りよりもむしろ、心の落ち着きを覚えた。
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87.  栄

栄は完全に虚を突かれた格好だった。「えっと、いま何て……」一瞬聞き間違いかと思い、言葉に詰まりながら間抜けに聞き返す。すると相手は、自分の声が小さくて聞き取ってもらえなかったとでと思ったのか、さっきよりもはっきりとした口調で繰り返した。「笠井未生です。前にうちの父親……笠井志郎のパーティで会った」ここまではっきり名乗られると間違いなどあるはずもない。栄は自分がいま、この世で一番憎らしい相手と電話を挟んで向き合っているという現実を渋々受け入れた。
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86.  栄

笠井家に関する週刊誌の記事が出てから一週間少々が経った。栄は毎朝決まった時間に家を出て電車に揺られ出社する生活に再び馴染みつつあった。しかし残業も突発対応もできない診断書持ちの身では相変わらず与えられる仕事は限定的だ。こういうときに限って余計なことを考える暇が豊富にあるのは正直言ってありがた迷惑にすら思えた。
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85.  未生

未生が帰宅した日、父は家に戻らなかった。真希絵と優馬はしばらくリビングで話をしていたようだが、普段より早い時間に二人とも自室に入り、その後は家中が静けさに包まれた。息を殺すようにして潜んでいた未生はそれからそっと階下に降りて、キッチンにあった買い置きのインスタントラーメンで夕食を済ませた。手持ち無沙汰なのでテレビでも観ようかと思いリモコンを手にするが電源が入らない。リビングのテレビはコンセントが抜かれたままで、おそらく優馬が誤って電源を入れても自分の家族についてのひどい報道に触れることがないよう配慮したのだろうと思った。