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79.  未生

未生の二十年と半分の人生を振り返ると、ちょうどほぼ半分を「笠井未生」として、残りの半分を「野島未生」として過ごしてきたことになる。最初の五年間の「笠井未生」としての時間のことは、ほとんど記憶していない。だが「野島未生」になって以降、母はしょっちゅう未生に過去の話を聞かせた。
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78.  未生

未生が尚人と最後に会ってからは、もう二ヶ月近くが経とうとしていた。もちろん一度だって尚人からの連絡はないし、未生から行動を起こすこともない。倒れた栄に病院で付き添っていた、というのが尚人に関して未生が得た最後の情報で、要するにそういうことなのだと自分を無理矢理に納得させた。いくら退屈でも日々は過ぎる。あっという間に桜が咲き、散り、未生は大学三年に進級した。
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77.  栄

想像はしていたが、聞かされた話は栄にとって快いものではなかった。栄の生活が仕事中心になり自宅での態度が冷たくなるにつれて尚人が息苦しさを感じるようになっていたこと。栄には尊敬や憧れそして愛情を持っているが、その一方で他人への評価の厳しさが自分自身にも向けられることにプレッシャーを感じていたこと。大学院を辞めて以来、栄のあからさまな落胆に対してどう振る舞えば良いかわからなくなったこと。そして――セックスレス。
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76.  栄

もっと時間を持て余すのかと思っていたが、散歩、読書、家事に加え少し体調が戻ってからはジムでの軽い運動もはじめ、栄の療養生活は思った以上に順調に過ぎていった。自分は根っからの仕事好きのワーカホリックだとばかり思っていたが、休もうとすれば休めるというのは新しい発見だった。四月に入って少し経った日曜日、自室の収納をひっくり返しているところに尚人がやって来た。「栄、何やってるの?」
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75.  栄

尚人は退院に付き添うと言ってくれたが、重病でも大怪我でもないのに恥ずかしいので遠慮した。母も同様のことを申し出たが、もちろん自宅に実家の家族を立ち入らせるつもりはない。入院中に一度様子を見に来た父は、真顔で「役人なんかになるからだ」と言って、いまから弁護士を目指したって遅くはないんだぞと付け加えた。だがこれから勉強をしたとして、最も甘い見通しの元ですら業務をはじめられるのは三十代半ば。負けず嫌いの自分が同年齢の法曹たちとの十年間の経験差に耐えられる気はしないし、不肖の兄の身代わりとなって父の後を継ぐべく奮闘している妹だっていまさら栄が同業者になることにいい顔はしないだろう。父の言うことはもはや、現実味のないただの夢でしかない。