こぼれて、すくって

こぼれて、すくって

第36話

栄はなんとも言えない気持ちを抱えてしばらく廊下に立っていた。考えすぎだとわかってはいても、一度意識してしまえば「ありえない」は「もしかして」に変わる。そして「もしかして」は、やがて――。 ドアの隙間からフローリングに細く漏れた光。あの先にいる男が自分に好意を抱いているのだとすれば...
こぼれて、すくって

第35話

帰宅しても気持ちは落ち着かず、ひとりになりたくて栄は夜中にも関わらずかれこれ数十分もバスルームにこもっていた。高めの温度に設定した湯船に浸かっているうちに完全に酒は抜けたのに、頭の中にはほんのりと浮ついたような感覚が残っている。それもこれも、元はと言えば。 ――トーマス、おまえは...
こぼれて、すくって

第34話

それなりに盛り上がった会は、日付が変わる頃にお開きになった。深夜であろうともバスや、週末に限っては一部の地下鉄も動いているのだが、日本の終電時刻が近づくと店を出たくなるのは体の芯まで染み付いた習慣のようなものだ。 週末のロンドン中心部は眠らない――とはいえ朝まで遊ぶ体力のある若者...
こぼれて、すくって

第33話

急に差し込むような頭痛を感じたのは、決して飲みすぎたせいではない。栄は悪気のかけらもない表情で――それどころか何かいいものを見たかのように目を輝かせているトーマスにまっすぐ向き合うと、厳粛に告げた。「トーマス、君は多分ひどい誤解をしてる」 いまの自分はおそらく仕事上の困難に直面し...
こぼれて、すくって

第32話

栄の視界に飛び込んできたそれは、毎日オフィスで顔を突き合わせている現地採用の秘書――トーマスの姿だった。 まずい、と思った。人通りが多いとはいえこのままだと確実に至近距離ですれ違うコースで、ともなればトーマスは栄と並んで歩く羽多野に気づくだろう。 トーマスは、久保村やその他の霞ヶ...